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「信仰」
高野 時雄

朝の祈りの時「今日も一日、主の十字架を心にとめて歩ませてください」と祈りました。しかし、いったん家を出ると荒波にもまれるように、この世の忙しい生活の中に埋もれて十字架の主を忘れてしまいます。そして翌日も、またその繰り返しです。神さま、恥ずかしく、ただ申し訳ない思いでいっぱいです。ゲッセマネの園で血の汗を流して祈る主のかたわらで、眠りこけている弟子たちを、なんと情けないことかとため息をしておりました私でしたが。でも今では自分達が弟子たちとまったく変わらない者で有ることに気づき顔から火が出る思いです。(マタイによる福音書26・36〜46) 引用
この文は、ある教会のご婦人が投稿した祈りの一節です。私はこの祈りの小冊子を読んで「ああ、自分も同じだなあ・・・」と手をにぎりしめ、その手に汗を感じながら、信仰の深さを感じさせられております。
ヤコブの手紙に「信仰と行い」について記載されている箇所があります。2章14節から26節までですが、その中でも、強烈な箇所が二箇所あります。一つは14節です。「自分は信仰を持っているという者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。」
二つめは最後の26節です。「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。」
この聖句を、「信仰よりも行いが大事なのだ」と受け止めてしまうと、それには無理が生じ、考え方としては誤りです。「役に立たない信仰、死んだものと同じ信仰」という聖句を考えますと、今の私たちの信仰は役立っているのだろうか、生かされているのだろうかと、考えてしまいます。「信仰」とは何だろう。単なる自分の幸せを願い求めるだけのものだろうか。ヤコブはこの箇所で信仰とは隣人に対する「行い」にまで反映するものであると考え強調しているのです。
皆さん、考えてみてください。私たちは善い「行い」を行ったから、教会のいろいろな条件を満たしたから救われた(洗礼をあたえられた)のではないはずです。救われたのはただ「神さまの憐れみ」によって救われたのです。だから、この恵みみを心にとめ、理解している人は、おのずと神さまの恵みに応えて生きようとします。その心が「行い」に現れてくるのだと思います。皆さんの私生活を思い浮かべてみてください。本当にお世話になった人には何か感謝を表すことがあるでしょう。それと同じように、キリスト者としての行いは、神さまへの感謝を表す「行い」なのです。しかし、出来ない時もあります。その時、言い訳をしたり、自己弁護をしたりすることがあるでしょう。ある聖書解説者はこの箇所を「誰でも出来ないことにぶつかると思う。そんな時、出来ない理由を並べるのではなく、その『痛み』をかみしめる者になりなさい」と教えております。
その痛みはきっと「祈り」を生みます。そうです、祈る言葉が主より与えられるのです。その祈りこそ信仰が生きているしるしではないでしょうか。そして、その祈りはいつか「行い」へと変えさせられるのです。「祈り+行動」これが私たちキリスト者に与えられた特権であり、恵みなのです。私たちは、普段の「行い」がただ単に自分の思いから出ていたのでは必ずつまずいてしまうでしょう。なぜかと申しますと、自分しか愛せない、生まれたままの自分がそこにあるからなのです。「そんな私をも神さまは用いてくださっているのだ」という信仰に立つとき、初めて自己中心的な行いから脱皮し、神さまを仰ぐ信仰生活に変えさせられるのではないでしょうか。
3月23日、主の復活を迎え、神さまの愛に生きる喜びを共にかみしめ、今年もまた互いが一つとなって「主の証し人」となることを確認し、歩み始めました。しばらく教会に来られない会員の方々にはお手紙を出し、教会の現状と主の復活の喜びを「真理」「燈心」等を添えてお伝えいたしました。これからも時を見て、お送りして行きたいと考えております。ヨハネによる福音書20章11〜15節に「泣く」という言葉が4回も使用されていることに気が付くでしょう。愛する主イエスさまを失ったマリアは「泣く」という行為を繰り返すことによって、主の十字架の悲しみを表しているといわれます。さらに「婦人よ」と声をかけられ、死を打ち砕き勝利のうちに甦られた主イエスさまが、「弟子たちのところに行って主は甦り、自分にその姿を現して下さったことを伝えなさい」と言われ、マリアは行動に移したのです。
今、私たちはこの世の出来事に目を覆いたくなるほどの悲しみを日々突きつけられて生活しております。しかし、その様な私たちにも、悲しみに涙を流し、墓穴に目を注いでいるマリアの背後に立たれた主イエスさまが、立たれていることを覚え、主の示される「道」をしっかり歩みましょう。主の誕生を喜び、主の十字架に悲しみ、主の復活に希望を抱き歩む信仰生活、その生活を大切に一歩一歩前に進んでまいりましょう。必ず道を整えてくださる主を信じて。アーメン。