高野さんの証し                            燈心TOPページへ


「家族の係わり合いが特効薬

高野 時雄

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一昨年頃から続いている「家庭内暴力」が原因で「貴い命」を奪うという痛ましい事件が今も後を絶ちません。また、青少年が係わる重大事件も増加しており、それらを食い止めるべき方策は、あの手この手と打ち出され実施されているものの、なかなかその実は結ばれて来ません。昨今の事件を振り返ってみると、ホームレスの女性を暴行の果てに殺害し金銭を奪うという14歳の少年、父親を包丁で刺殺する高校生、親が我が子に対して引き起こす児童虐待および殺人の数々。マスコミで報道される犯罪や事件は数え切れません。

 更に今年に入って起きた母親と二人の兄弟を殺害し家に火を放った少年。父親が家族を殺害すると言う痛ましい事件。いかなる家庭環境にあろうとも、「人間としての領域を超えた行為」は許されないでしょう。その悲惨な犯罪は「悪魔の申し子」の仕業としか思えないほどのすさまじい事件であったとマスコミは報道しています。

子どもは、生まれてきたときはとても可愛いらしく、初対面の時、この子は将来どんな子に育つのだろうか、自分が出来なかった夢を叶えて欲しい、などと親バカを発揮し胸を膨らませました。どこの親も同じでしょう。その夢を抱いて育てた我が子に刃物を向けられ殺害されたとしたら「死んでもしに切れない」のではないでしょうか。しかし、その事件が現実に起きているのです。それが今の世の中。辛く悲しい世の中なのであります。

では、何故なのでしょうか。両親が共稼ぎで自分が鍵っ子で育てられたから、そんな人は山ほどいます。厳しい家庭生活で息切れしてしまったから、お金に無頓着で好き放題に生活してきたから、そんなことで人生が逆さまになるような事件は引き起こさないでしょう。

 よく言われます。「今の世の中は何かが狂っている」と。でも、私は思うのです。狂っているのではなく、狂わせているのではないかと。ある雑誌に載っておりましたが、山村の農家で一日の親子の会話が、たった二秒、という記事を読んで驚きました。「起きろ」「寝ろ」だそうです。それに付け加えて「勉強しろ」が入っても二秒で済むそうです。これは会話ではなく一方的な「かけ声」で太鼓の音が「ドーン」と鳴ったようなものです。要するに親が子どもに「ドーン」とぶちかまして子どものお知りを叩いて動かす合図です。これに更に加えて「早く」が入ると「早く起きろ、早く寝ろ、早く勉強しろ」・・・。これでは子どもは息をつく暇もありません。子どもの生活の喜びや、自発性や意欲などを全く考えていないと言えるでしょう。このような「かけ声」でも、親にかけてもらえば「自分の存在が親に分ってもらっている」として、まだ救われるところがあります。しかし、家庭によっては一緒に暮らしていても二週間もの間、互いに口を利いたことが無いという子どもがいます。これには驚きです。子どもにとっては「俺はこの家のなんなんだ」と怒り狂うでしょう。「人に無視される」ことほど悔しく辛いものはないのです。そして孤独に陥るのです。

 自分が歩んできた道を、今、思い起しています。戦前生まれの私は、育ち盛りは終戦直後のど真ん中で、食料難でお腹に入るものなら何でも食べた時代です。農家で米作りをしていて食べる米が無いなんて、そんな馬鹿なと思われるでしょうが、それが当時の現実の姿だったのです。作った米は全て「供出」、残りわずかな食料を多産家の家族が分け合って生活していたのです。街場では、食料不足でやむを得ず他人のものを盗んで捕らえられる青少年も少なくありませんでした。それでも「子どもが親兄弟を殺害する」などということは聞いたことがありませんでした。「生きる」ことだけを考えて生活して来た当時の人たちは「助け合う」ことを自然と身につけて来ました。そうしないと自分も生きられないからです。特に家族や親族の絆は強いものがありました。あれから60年を過ぎた今、何が変わってしまったのでしょうか。「人を思いやる心」や「道徳」は、どこかに置き去りにされてしまったような気がします。だから、先に述べたような悲惨な事件が繰り返されるのではないでしょうか。このままでは、第二、第三の事件が起きるでしょう。それも私たちの身近で起きるかも知れません。「家庭の責任」「親の責任」そして「子どもの責任」。その責任はどこから生まれて来ると思いますか。それは、家族の「思いやり」の心から生まれ、家族の優しさから育てられて来るのだと私は思います。

 対話の無い家庭、互いに背を向け合って生活する家族、親の仕事さえ知らない子ども。そんな家庭や子どもを私たちは増やしてはなりません。なぜ、「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」が言えないのでしょう。それは、家庭の中での対話が無いからです。赤ちゃんが初めて言葉を覚えるのは「両親」の口からなのです。その親の口が貝のように閉じていたならば、子どもは言葉を覚えません。子育ては「親の責任」が大きいのです。

 私たち新発田教会の今年度の宣教のテーマとしてのみ言葉は「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」です。このマタイによる福音書7章12節を引用させていただき、みなさんでこのみ言葉によって学び、信仰生活を送ることを週ごとの礼拝で確認しております。

 私たちの身近にも子どものことで悩んでいる両親がいるかもしれません。逆に親の暴力に身の置き所がなく苦しんでいる子どもたちがいるかもしれません。私たちに何が出来るか分りませんが、一緒に考えてあげられたら、一緒に話し合うことが出来たならば、犯罪を思いとどまらせることが出来るかもしれません。神様を信じる一員として身近な人に目を向けて歩いてみたいものです。

とにかく家庭には「対話」です。対話のない家庭は火の消えた家と同じです。寒々とした家の中に希望や勇気は生まれません。ぜひ、日々の生活の中で、隣の人との係わり合いを大切にして歩むことが出来ますように祈ってまいりましょう。

アーメン


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