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「みことば」
高野 時雄
テキスト ボックス:  「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇のなかで輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
 ヨハネによる福音書1章1〜5節の冒頭のみことばであります。ヨハネは「初めに言があった」と言い、「言は神と共にあった。言は神であった。」とはっきり言い、その言には「命」があり、命は人間を照らす「光」であると強調したのです。暗闇を照り輝かす光は、暗闇の中でもがいている人間を救い出してくれる「言」なのです。その「言」こそが、私たちキリスト者が信じて仰ぐ神なのです。
創世記第1章1節から、「初めに神は天と地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。」とあります。ヨハネは、その神が造られた光を「人間を照らす光」として引用し証ししたのです。
ヨハネ1章14節で、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」と言われています。この二つの聖書の箇所を総合すると、言=命=光であって、それそれ一つに結び付けることが出来るのです。その結びついた神の御力が愛であり、恵みであり、救いなのです。その神の御力を証ししたヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1章29節)という言葉で神の子イエス・キリストを紹介しております。その意味は、遠く旧約時代にさかのぼります。
 イスラエルの人々はエジプトからなかなか抜け出すことが出来ませんでした。それは、増え続けたイスラエルの人たちに対してエジプトの王ファラオが、その増す力に驚異を感じ、イスラエルの人々を奴隷として扱いその力を封じたからです。更にエジプトの王は、イスラエルの家族に生まれる男の子を皆殺しにする通達まで出し、増えるイスラエルの人々の勢いを食い止めようとしたのです。そして、毎日辛い生活を強いられてきたイスラエルの人々に神の救いが注がれたのです。その救いの導き手として選ばれたのがモーセです。(モーセの生い立ちは出エジプト記2・1〜10を参照して下さい。)
神はイスラエルの人たちをエジプトより救い出すために、モーセを通してエジプトの国に血の災い、蛙の災い、疫病の災いなど10の災いを与えて救おうとしましたが、心をかたくなにされたファラオはイスラエルの人々をエジプトの国から去らせなかったのです。神は最後の災いをファラオとエジプトに対して行うことを決め、モーセを通してイスラエルの人たちに、その災いから逃れる道を教えたのです。それが「主の過越し」なのです。その神の最後の災いは、「エジプトの国の全ての初子を撃つ」と言われる神のみことばなのです。その時、イスラエルの人々がその災いから逃れる行為を神はモーセを通して示されております。「イスラエルの家の柱と、かもいに子羊の血を塗りなさい」と。そして災いを行うものが、子羊の血を塗られたイスラエルの家の前を通り過ぎて行ったのです。新約聖書にも、過越しの祭りというみ言葉がよく出てきますが、このことをいつまでも感謝し覚えるために祭りとして設け、続けられているのです。
「神の子羊」とは、イスラエルを神の災い(滅び)より解放したものであると言われます。だから「世の罪を取り除く神の子羊」という言葉は、世の人々、すなわち私たちを罪から、罪の滅びから解放してくれる方であるという意味があるといわれております。
さて、私たちは、神の「みことば」を何から聞き入れているでしょうか。
 もちろん聖書からと答えられるでしょう。そうなのです。神の霊感によって書かれたこの聖書を通して私たちは神を知り、神を信じる信仰の道を歩むことを許されているのです。
冒頭、ヨハネによる福音書の1章を用いて「みことば」について考えてみました。そこからつながる「出エジプト記」(旧約聖書)を読むことによって一つの意味が理解できるのです。旧約、新約を通して語られる神の福音は一つの「みことば」として生きているのです。その聖書は、「初めに、神は天地を創造された」で始まり、「主イエスの恵みが、全ての者と共にあるように」(ヨハネの黙示録22・21)で終わります。天地創造において、「極めて良かった」と祝福を持って始めてくださった神が、祝福を持って聖書を終えてくださっていることに、私たちにお与えになられた「みことば(聖書)」の素晴らしさに感動を覚えるのではないでしょうか。神の愛、恵み、救いそして祝福を宣べ伝える使命を与えられ、日々の信仰の歩みを続けているのです。
前に、キリスト者は「聖書を読むのは当たり前」という本を読んだことがあります。そこには、「人生には生きた歳の数だけ、出会った人の数だけたくさんの悲しみがあって、時にはそれを乗り越えることが困難に思われる時があります。聖書はそんな時、私たちに何かを示してくださる。」と言われておりました。どうしたらよいのか、何をしたらよいのか、身の置き所のないほど悩み迷う時、聖書を読むこと、それも、一人でだめなら二人または三人、それでもだめなら仲間を集めて読むことだと、その本は語っておりました。とにかく一生懸命読むところに「神の救い」が与えられる。と言われます。聖書を肌身離さず読んでいると、読んでいるつもりが、いつしか聖書によって捕らえられ、聖書が私たちに向かって語り出す時が来るといわれるのです。
神が約束された「愛、恵み、救いそして祝福」。私たちの人生を明るく導いてくださる聖書。一日2〜3節でも良いと言われます。続けて読むことが大切なのです。幸いにも「ルーテル聖書日課」が発行されております。これも日々忘れないで読む一つの手引きになるのではないでしょうか。
聖書は難しいと言う方、牧師先生に一言、声をかけてみてはいかがですか。きっと先が見えてきます。
「聖書、礼拝、祈り、賛美」。キリスト者にとっては離すことの出来ない宝です。「みことば」に耳を傾けていきましょう。
アーメン
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