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「はじめての礼拝」
高野 時雄
テキスト ボックス:  皆さんは、教会に初めて来た時のことを覚えておられますか。教会生活を長く送っていればいる程その時を思い出すことが難しいと言われます。「そんなことは当たり前のことじゃありませんか」と思うでしょう。私も同じです。しかし、あるキリスト教雑誌に記載されていた「信徒の思い出」の中で、信仰生活50年以上の老夫婦が「初めて教会に来て礼拝を守った」ことをはっきり覚えていると言われるのです。それも牧師先生の説教の大筋までも忘れていないと言われるのですから驚きです。どうしてなんだろう。そんなに記憶力が良いのだろうか。高齢になると物忘れが出てくると言われるが、そんなことはないのだろうかと不思議に思っていました。でもそれは事実なのです。
私も昭和37年に初めて教会に行き礼拝に出席しました。当時はラジオによる「電波伝道」が盛んで、各放送局では「仏教」「キリスト教」「新興宗教」など、いろいろな宗教団体が「電波を通してメッセージを伝えよう」と、それぞれの時間帯を用いて自教派のアピール、伝道を展開しておりました。今は放送しておりませんが、私たちのルーテル教団も同じルーテル教会のグループの1教会として「電波伝道」に参加し「ルーテルアワー」と題して放送しておりました。ですからラジオ放送を聴いて教会を訪ねる人が多く、毎月のように「初めて出席」される方が3〜4人おられました。
私たちの教団はその当時、日本人の牧師先生は少なく、地方の教会はほとんどが宣教師である外国人の先生達が牧会し、キリスト教を宣べ伝えておりました。今も宣教師の先生方にお世話になられた信徒の方々がいらっしゃいます。
その頃地方では宣教師の先生が開く「家庭集会」や「日曜学校」に大人や子ども達が大勢集うようになり、礼拝出席につながっておりました。都会では「電波に乗ったルーテルアワー」や「各地で行われるキリスト教集会」において聴講して興味を持たれて教会を訪ねる人や、学校や病院などの集会でキリスト教を知り、礼拝に出席する方が増えておりました。今のように、インターネットや携帯電話のメールなどで、いろいろな情報が自由に入手できる時代ではなかったので、「見て、聴いて、誘われて」教会の門を叩いた人が多かったように思われます。
この様に礼拝に出席する機会は様々です。私は「電波伝道」であるルーテルアワーを聴いて「ルーテルアワー通信講座」を受講し教会を紹介され、礼拝に出席することを許され、洗礼に導かれました。通信講座の学びの中には、イエスさまの例え話が多く出てきておりました。特にその中でも「放蕩息子」の例え話(ルカ15・11〜32)では、回答される先生宛にいろいろと数多く質問を書いて提出し、回答を頂いては疑問点を書いて再提出するというそんなやり取りを行っておりました。そのうちに「一度教会に行ってみませんか。教会では礼拝という時間帯の中で聖書を用いて学びが出来ます。更に牧師先生が疑問点を良く教えて下さいます。また、若い人たちのグループもあり、色々な集会を開いて楽しい集いを持っております」とお誘いの手紙を頂きました。

郷里を離れて都会生活を始めて1年。仕事や人間関係に悩んでいた時でありましたので、「郷里(親元)に帰りたい。」そんな気持ちをレポートに書いていたのだと思います。そんな私に届いた手紙が近くの教会案内でした。東京の下町に住んでおりましたので、紹介された「東京ルーテルセンター教会」はそんなに遠い距離ではありませんでした。早速紹介書を持って礼拝に出席しました。礼拝堂の入り口の鉄の扉が重く感じたことを今でも覚えております。(現在は改築されておりますが)
牧師先生は「名尾耕作」先生で、説教は長ければ長いほど良い≠ニ言われるだけあって礼拝時間はいつも定刻前に終了したことは有りませんでした。讃美歌も、指揮者がタクトを振るように大きな動作の身振り手振りで力強く歌っておりました。聖書の箇所や説教の内容は忘れましたが、よく讃美歌を歌っておりましたので、教会を「歌う宗教団体」と勘違いする程でした。
あれから46年。あまり変わり映えしない信仰生活を送って来ておりますが、教会を離れようと思ったことは一度もありませんでした。もしかしたら私は臆病者かもしれません。神様から離れるのが怖いのかもしれません。だって神様は「私を捕らえて下さっている」のですから。そこから離れたら私の人生は糸の切れた凧のように宙に舞ってどこかへ飛んで行ってしまうような気がするからです。そして新潟に来て33年。新潟地区の信徒の皆さん、そして新発田の皆さんに励まされたり助けられたり、たくさんのことを教えて頂いたりしながら、今もこうして信仰の道を歩むことが出来ることを本当に感謝しております。
どうですか。皆さんも初めて教会に来られたことを思い出せますか。中には、いろいろな理由で思い出したくない、といわれる方もいらっしゃるかもしれません。でも「自分を変えて下さった教会、そして信仰」のきっかけ≠ナある初めての礼拝、又は洗礼を受けた日、いくつもある思い出をたどって行けば必ず感激にたどり着きます。そしてその思いを神さまは更なる深い信仰へと導いて下さいます。
神さまは「恐れることはありません。私に連なっていなさい」とおっしゃいます。信仰が必要か必要でないかを決めるのは私たちではありません。全て神さまが与えて下さることです。主イエス・キリストの誕生、そして苛酷の十字架の死、その死からの復活。これらの神さまの業が「本当の神さまの愛」なのです。全てこの神さまの愛によって私たちは支えられていることを覚え、感謝し、祈って行きましょう。

アーメン
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