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「不思議な風に支えられて生きる」
高野 時雄

山間の林の木々が一斉に芽吹き、立ち込める朝霧の中に差し込む輝く光がみずみずしい色の無数の若葉にそそぐ春。早いものでその春も赤や黄色の華やかな花から、新緑の葉に囲まれて咲き始めるアジサイとなり、季節は初夏に移りました。木々を通り抜ける風も、さわやかな春の風と違って生暖かさが入り混じって吹き抜けます。それでも風は人肌を涼しげに感じさせます。
最近、風をテーマにした歌が人々の共感を呼んでいます。その共感の理由はどこにあるのでしょうか。私たちの心の中にある何かをゆり動かすものが歌の中に含まれているからではないでしょうか。それは「風そのものの中に何かふしぎなものがある」と信じる人たちが、大きな広がりとなって共感を呼んでいるのです。風。その風には、私達が思う以上に大きな力があります。暑さをしのがせてくれるそよ風から、自然を破壊するほどの暴風や突然襲いかかる突風。
2000年前、主イエスさまの弟子達の群れに「ふしぎな力」が与えられたことを聖書は伝えております。使徒言行録が記すペンテコステ(聖霊降臨祭)の出来事です(使徒2・1〜13)。主イエスさまが、かねてより遣わされると約束しておられた聖霊が弟子たち一人ひとりの上に与えられたのです。
「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分れ分れに現れ、一人一人の上にとどまった」(2〜3節)。これが使徒たちの上に、聖霊が注がれた時の劇的な場面です。この劇的な場面も突如として起きたわけではないのです。使徒言行録1・4〜5にかけて、主イエスさまは次のように弟子たちに語られています。「前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」。更にまた、8節に「あなたがたの上に聖霊が降りると、あなたがたは力を受ける。」と語られたのです。復活の主イエスさまの約束通り聖霊が弟子たちの上に降りてきて初代教会が生まれたのです。
さて、キリストの体である教会が、クリスマスからでもなく、受難週やイースターからでもなく、ペンテコステから始まっていることに不思議を感じられませんか。聖霊降臨の時は神様によって計画されていたもので、その出来事を良く見てみますと、教会が何によって立てられているのか、それが示されていることに気づきます。それは「五旬祭の日」から始まっていることに
注目してみて下さい。五旬祭という日はただのお祭りではないと言われます。元来、収穫を感謝して初穂を捧げる日と定められており、五旬祭は過越祭から50日目を意味する言葉であり、過越祭は皆さんがご存知のように旧約時代イスラエルの人々が異国の地エジプトにおいて、奴隷として過酷な労働を強いられていた時、神がイスラエルの人々をかえりみられ、モーセをおつかわしになられ奴隷の地エジプトより解き放された救いの御業を心にとめ、その恵みに答えるために過越祭は捧げられてきたのです。更にこの50日の意味は、主イエス・キリストが十字架に付けられて息を引き取られてからちょうど50日目に聖霊が弟子たちの上に降りたのです。これは旧約時代の祭りが、主イエス・キリストの十字架と復活を通して教会に堅く結び合わされていることが、はっきりと示されているのです。
さて、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」と語られているこの御言葉。響き渡るほどの激しい風、それも突然に起きてくる風、その風が炎のような舌を伴い一人ひとりの上に注がれたのです。風であり炎のような舌である「聖霊」によって語りかける者(宣教者)とされた無学な漁師、人々に嫌われ蔑まれる徴税人。大勢の人はこの有様を見て「この人たちは新しい酒に酔っている」と思うほどに驚いたのです。それよりも「聖霊」の力によって語り出した弟子たち本人が驚いたのではないでしょうか。主イエス・キリストの十字架の処刑の時、クモの巣を散らすがごとく逃げ去り、生きる力を失っていた自分達が、今、大胆に「神の御業」を語る者とされていることに驚いたに違いありません。しかし、神さまは驚いたままにしておきません。ペテロは11人と共に立ち上がり、預言者ヨエルを通して言われた神さまの御言葉を引用して民衆に主イエス・キリストについて証し(福音を説教)したのです。そのペテロを奮い立たせたのが「聖霊」なのです。
今年のペンテコステ礼拝のメッセージの主題を士反先生は「世の誤りを明らかにする」と題して、ヨハネ福音書16・4B〜11の御言葉によって説教されました。その中で、「聖霊」について、「聖霊には名前はない。聖霊は主と訳され、また弁護者あるいは真理の霊と言われており、弁護者は聖霊あるいはキリストを示すものであって、神さまの御前において、私たち罪ある人間を弁護し、とりなしをしてくださる御力(働き)なのです。自分が行く時、また、自分がやろうとする所に弁護者がついて下さっているのです。」と言われました。ある聖書解説書によりますと、弁護者は助け求める者の救い主となられるから聖霊の事を「助け主」と訳しているのも、助け求める者の救い主となられるからなのです。だから、聖霊は「救い主」そのお方の御姿なのです。
私たちキリスト者は、神さまに選ばれ、神さまに招かれていることをどのように知るでしょうか。それは、素直に神さまの招きを受け入れ、そして洗礼を受け、罪の赦しにあずかる聖餐を受ける礼拝を守る教会生活を送ることに有ると言われます。キリスト者の信仰生活、それは御言葉に親しみ、信徒の交わりを大切にし「共にとりなしの祈り」を心合わせ、熱い思いで祈るところに主イエス・キリストが約束された「聖霊」が降るのです。
2000年前のあの「風」が「炎」が、今も私たちの上に注がれているのです。そよ風となって、朝日の光となって、私たちの弱くなっている手足や心を強めて立たせて下さる「聖霊」を信じて日々御言葉にふれ、賛美、そして祈る教会生活を送りましょう。
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