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「一緒に歩んでくださるイエスさま」
高野 時雄

先週私たちは、主イエス・キリストの復活に出会い、改めて神様の御業に触れてその偉大さに心引き締まる思いをしました。
主イエス・キリストの復活を目の当たりにした弟子たち。誰よりも先に復活のキリストに出会った三人の婦人たち。更にエマオの村に向かう二人の弟子たち。それぞれ甦られた主なるキリストに出会うその場面は異なりますが主イエス・キリストに出会ったその時の驚きと喜びは同じです。その中でも三人の婦人たちに現れた有様は福音書によって若干の違いはありますが、誰よりも先に墓にかけつけたのは同じでした。
墓に出かけて行った婦人達は、ガリラヤから教えを頂きながら方々の町や村を一緒にお供し、あの恐ろしい十字架の死を遠くから見ており、恐ろしく震えが泊まらない状態にあったに違いありません。しかし、ペテロをはじめ男の弟子たちは皆ユダヤ人を恐れてその場を逃げ去ったのです。その中で勇気を示したのはこの婦人たちです。
イエス様が十字架にかけられて死を遂げられたのが金曜日ですから、安息日の準備の時が来ます。もう時間はありません。イエス様の亡き骸をそのままにして置く訳には行きません。何とかしなくてはなりません。でも頼りの弟子たちはどこにもいません。婦人たちは不安でしょうがありませんでした。
その時、イエス様を十字架にかける決議をした議会議員の一人アリマタヤのヨセフ(このヨセフはイエス様を十字架にかけることに反対した人です)がピラトに願い出て、イエス様の亡き骸を引き取る許しを得て、墓の中にイエス様を納めたのです。その有様を見ていた婦人たちは、まずは一安心。安息日が終わったらイエス様に香油を塗って、手厚く葬ってあげようと朝早く墓に出かけて行ったのです。もちろん、墓には大きな石が入り口をふさいでいる事も承知していました。だから「誰が墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか(マルコ16・3)」と話しながら歩いて行ったのです。石がのけられなければ墓の中に入ることが(前に進む事)が出来ないことを彼女たちは知っていたからです。
ところが、その心配は吹き飛んでしまったのです。驚くことに墓の入り口の大きな石は横に転がされていたのです。婦人たちの驚きと不安は想像に絶するものがあったでしょう。墓の入り口の大きな石は「大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきに転がし、その上に座った(マタイ28・2)」。石は地震によって転がされたのです。ある聖書学者はこの場面を「神様は信じる者に対して、天を動かし、地をふるわせて道を備えてくださることをここで教えている」と言っております。確かに私たちは、天を動かすことも地をふるわすことも出来ません。そこで神様は私たちに信仰生活を続けて行く中で障害にぶつかった時、その障害という石を取り除いてくださる事を教えているのではないでしょうか。
恐れと不安を抱えて墓に向かった婦人たちの「勇気」は、私たちに沢山のことを教えてくれています。教会生活を送る中で周囲の事柄に流されて大事な事を見失う事があります。「勇気」がなくて注意できない。「勇気」がなくて本音が話せない。「勇気」がなくて御言葉を他者に伝えられない。神様はその「勇気」は御言葉を通さなければ得ることが出来ないと言われます。だから御言葉を「聞く」「見る(読む)」を心がけ、御言葉に親しむ事が大切ではいでしょうか。
また、婦人たちの次に復活のイエス様に出会っ
た弟子たちがおります。それはエマオという村に出かけていく二人の弟子です(ルカ24・13〜35)。弟子たちはイエス様が十字架に掛けられた土地から早く逃げ出そうと言う気持ちで一杯でした。それはイエス様の弟子だと分かると、ユダヤ人に捕らえられて、自分もあの恐ろしい十字架に掛けられてしまうのではないかと不安があったのです。だから10キロ離れたエマオに逃げて行くのです。
エマオに向かって歩む弟子たちは、心暗く、沈んでおりました。けれども話はつい、イエス様のお話になってしまいます。「イエス様はどうして死んでしまったのだろう」「イエス様が生きていてくださったら」。また、生きていた時話して下さった多くの神様の御言葉、目の当たりにした十字架での御姿、弟子たちの話はつきません。更に、「イエス様は生きておられる」と婦人たちから衝撃的なお話を聞かされたのです。不安になりました。もし復活されたイエス様にお会いしたとしても、自分たちはイエス様が捕らえられた時に真っ先に逃げてしまい、裏切ってしまったからです。その後ろめたさが有り、また、沢山の奇跡を見せ教えてくださった「神の国」について、何一つ信じていなかった事への「恥じらい」があります。復活されたイエス様にお会いしたら何とお詫びをしたらよいだろうかと不安は募るばかり、
そんなことを話しながら歩いている後ろにイエス様が立たれたのです。悲しみに沈んで暗いことばかり考えていた二人の弟子たちは、自分たちと一緒に歩いている人がイエス様とは気づきません。私たちも、悲しみが大きかったり、暗いことばかり考えていると「一緒に人生を歩んで下さる」イエス様を見失ってしまい、愚痴や怒りに心を曇らしてしまいます。けれども、イエス様は「歩きながら、やり取りしているそのお話は何のことですか」と声を掛けて下さったのです。イエス様のよみがえりは、説明したり、お話をするだけでは分かりません。本当に「復活」されて私たちと一緒に歩いてくださるイエス様がいらっしゃる事を信じなければ私たちの信仰は何の役にも立たないのです。
私たちが生き、生活する人生の歩みの中に、近づいて一緒に歩んで下さるイエス様。「一緒に歩いて下さっているんだ」と心に受け止める時「心が燃える」と言われます。私たちは、その燃える心を頂くことによって喜びが与えられ、元気付けられ、力が与えられるのです。その力こそが、復活の主イエス・キリストの力なのです。
神様がいつも私たちを見守って下さり、どんなところにもついて歩んで下さり、希望と勇気を与えて下さることは、旧約聖書の詩編23・4に書かれています。「たとえ死の陰の谷を行くときも、私は災いを恐れない。あなたが、私と共にいてくださるからです。」この御言葉のように、神様に全てをゆだね、神様を信じ歩むことが私たちキリスト者の信仰の証です。
復活された主イエスに出会った時、弟子たちは驚き、恐れ、そして喜びに満たされました。これが復活の主イエス・キリストの命なのです。その新しい命は、信じる私たちにも与えられているのです。更に神様は言われます。「あなたがたより先にガリラヤ
に行かれる。そこでお目にかかれる」(マタイ28・7b)。弟子たちにガリラヤに行くように命じられたのです。ガリラヤは弟子たちがかつてイエス様に招かれて弟子とされた所なのです。それは、そのガリラヤから「もう一度やりなおす」と言っているのではないのです。そのガリラヤから新たに「生きよう」と言われているのです。
教会を遠のき、御言葉(聖書)に触れることもままならぬ生活を送られているキリスト者が最近多くなっていると言われております。しかし、そのような方にもキリストの愛はいつも注がれているのです。神様は分け隔てをしません。私たち一人ひとりの行いをつぶさに見ていて下さって、必要に応じて答え(恵み)を与えて下さっております。「神様(イエス様)はもう自分を見捨ててしまったのだ」などと悲観することはないのです。いつもあなたのそばにいて下さっております。自信をもって教会生活送りましょう。
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