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「殺してはならない」
高野 時雄

出エジプト記20章、神様はモーセに十の戒めを告げられました。その第五戒で「殺してはならない」と命じていることはご存知であると思います。マルチン・ルターによる小教理問答書を見ますと、第五戒は「いのちと幸福」とあり、その意味は、私たちは神を畏れ、神を愛さなくてはなりません。それで、私たちは隣人のからだを傷つけたり、苦しめたりしないで、むしろあらゆる困難の場合に彼らを助け、また、励まさなければなりません、と書かれております。そして、私たちはいかなる理由があろうとも他者を傷つけたり、苦しめたり殺してはならないと付け加えているのです。
今から十年前になるだろうか。神戸の十四歳の少年による幼児殺傷事件が発生し、世の中がその憎むべき事件に対しさまざまな論争を繰り返し、二度と起こさない、起こさせないと青少年を中心に教育の現場で「命の大切さ」について指導を続けてきており、今も必須科目のように実施されている。しかしどうでしょうか。この十年の間、凶悪な殺人事件の発生は減少して来ただろうか?まったく逆です。年々殺人事件は増えており、ここ近年は親が子を、子が親を殺す、昨日の友が今日の敵といった近親による殺人が増えてきているのです。両親を殺害し我が家に火を放つ少年、同じクラスで机を並べて学ぶ子供同志が加害者と被害者に分かれる。わが子を殺しその隠蔽をはかるために他人の子を殺して放置する鬼より怖い女。毎日のように報道される暗いニュースは「またか」ちいう驚きと同時に、「世の中どうなっているんだ」という怒りに変わるのである。先日発生した母親殺しの事件は、三十万円で自分の母親の殺害を依頼した実の子、それを引き受けた親友、入浴時を待ち伏せしての犯行。無防備の母を殺す子供の心に、怒り狂っても余る思いを感じる。ゲーム感覚で実施されてしまう凶悪犯罪は私たち年配の者にはどうしても理解できない。
この事件の一週間後、母親が夜間子供の部屋を見回りに行った際に金属バットで殴られ意識不明におちいった事件。いずれも母親から「勉強しなさい」と口うるさく言われたことが発端で、「母親さえいなければ自由になれる」と思いこみ、犯行に及んだのである。もちろん殺すつもりで最初から計画を立てていたと少年たちは証言しているから驚きである。
人の命を虫ケラ同然のように殺してしまう世の中。いつどのように変わってしまったのだろうか。三〇年くらい前になりますが、自動車運転免許更新で受けた講習の中で見た「一杯のあやまち」という飲酒運転の防止を狙いとする映写がありました。仕事一徹の真面目なサラリーマンが、友人に誘われるがままに居酒屋に。「酔いをさまして行けば大丈夫」の声にお酒を一杯口にした。しばらく車で休んで自宅に向かって出発。最初は難でもない眼がうつろになり、暗闇の十字路に差しかかった時、前に何か物が動いたような気がしたその時、「ドーン」という音と共に悲鳴が聞こえ、あわてて車を止め前を見たら人が倒れていた。飲酒運転による前方不注意事故である。働き手を失った遺族は悲しみと怒りに「一生恨んでやる!」と裁判書で号泣していたのです。
人を殴ったり、首を絞めたり、高い所から突き落とすという行為は、それを行ったら人は死亡することがわかって行うことであって、ふざけ半分で行う行為ではない。明らかに殺人である。飲酒運転も「酒を飲んで車を運転すれば事故が起きる」ことを前提に考えるならば、れっきとした殺人である。このところ県市町の職員、消防士による飲酒運転で幼い命が奪われたり、大ケガを負わされる事故が後を絶たない。良識のある公務員が何故法を守ることができないのだろうか?罰金も刑も昔と違って重くなっているにも係わらず、事故は減少しない。「加害者になって反省しても後のまつり」。一生重い十字架を背負って歩まなければならないのに、単なる自分の欲求を満たすだけに過ぎない行為が、一生を台無しにしてしまうのです。ルターが、第五戒を「いのちと幸福」と言われる理由に、エジプトでの奴隷状態から神様の愛によって救い出されたイスラエルに授けられた文の力、その力をイスラエルの人々は奴隷時代の苦しみと辛さから開放された喜びにかえ、次世代に継承していくために、この戒めを大切にすることを考えてきたといわれております。
互いが憎しみあい、争っていては国は滅びてしまいます。大切な命を奪うような行為は、幸福な家庭、幸福な国とは言えない。一人ひとりが責任ある行動がとれるよう、身近な者に目が向けられたらと思います。「いのちの大切さ」をもう一度考えることを勇気をもって知らしめすことができますよう、祈り続けたい。

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