高野さんの証し                            燈心TOPページへ


「赦し」

高野 時雄

テキスト ボックス:
 二十五、六年前になるでしょうか、祈りについて学んだ時参考にさせて頂いた祈りの本に、次の様な短い祈りがあったことを思い出します。その祈りは、「神さま、赦すということは難しいです。」と言う言葉から始まり、次のように続きます。「『私は赦すことができました。許しに生きる事が出来ます。赦す事を知って初めて、感謝の生活がわかりました。』と言う証を聞きました。神さま、私もその内容を聞いて、本当に良かった、そうだなと思いました。しかし神さま、私は赦せないのです。赦してしまったら、私の怒りの立場が無くなってしまいます。あの時、私が怒り、憎しみを持ったのは、当然なのです。誰から見ても、聞いても、私は間違っていないのです。私が正しかったのです。だから、神さま、私が赦したら私の正義はうそになってしまいます。赦さない、赦せない。それが全てをよくするのだと思い続けてきました。でも、イエス様はその全てを赦されたことを私に教えて下さいました。それはよくわかっております。でも、やっぱり赦すことは難しいです。神さま……」
 ここで祈りは終わっております。この祈りを祈られた方の心の中については何も記載されておりませんでしたが、おそらく、かなりの怒りと憎しみを抱いて生きている方ではないかと想像します。そしてこの方は赦す事の難しいことを神様に直にぶつけているのです。この方が自分の考えと思いを貫こうとして祈っている事が読み取れます。神さま……に続く言葉は「こんな私をお赦しください」ではないでしょうか。
私たちの長い人生の中で、何もかもわかっていて赦す事を拒んでしまう場面は何度も出てきますね。ここ一、二年、子どもを巻き添えにした凶悪犯罪が増えて来ています。その度、怒りと悲しみと憎しみに、涙で顔をくしゃくしゃにしている被害者の両親の姿がテレビや新聞紙上に映し出されています。被害者にとっては、加害者は鬼のように憎く、当然赦す心などひとかけらも浮かばないでしょう。「何故わが子なんだ」と両親は加害者に号泣して詰め寄る。こんな悲惨な場面は見ている側にも憎しみが湧いてきます。
 この様な犯罪者に対して、私たちキリスト者はどうして「赦し」て行けるかと悩むでしょう。キリスト者が、一人の信徒としてその信仰生活を送って行く上で一番悩むのが、やはりどうしても赦せない、赦さなければならないのに赦せない、そういう場面に会った時ではないでしょうか。それは、キリスト者であれば、どんなことでも赦せるはずだ、と決め付けられてしまっているからです。だから人を赦す事が出来ないと「お互いの心に赦し合う心が無いから赦せないのだ」と言う者、「真の信仰が無いから赦せないのだ」と言う者がいます。そういう時「キリスト者だって罪ある人間だ」と反論してしまいます。あるキリスト教関係の月刊誌に「主イエス・キリストの愛と赦しの十字架を仰ぐ教会の中でも、信徒同士、あるいは牧師と信徒の間で、赦し合うことの出来ない争いと憎しみが起こる事がある」と言う内容の文が記載されていました。それは、互いの主義主張の中で赦し合う心が欠如し荒々しさを剥き出しにしてしまうからだと言われます。
 この世の中には、人間同士でどろどろした関係を作ってしまい、そこをくぐり抜けずに生きている人が意外に多いと言われます。そんな社会の中で、人間関係に嫌気をさして職場を辞める者、学業に身が入らず中途半端で遊びまわる学生、隣近所のお付き合いがうまくいかずノイローゼに陥る主婦、また、いじめにあったりさげすまれたりして悩む若者、この様な人たちは「気が弱い上に、自分自身を主張できず悩み落ち込む」のです。この様な人たちが次に何を考えるかと言うと、何らかの犯罪や自殺です。その中でも犯罪を起こし加害者になってしまう者が多いのではないでしょうか。この様な人が犯す罪を分析してみますと、犯罪そのものは根深いものではなく、意外と単純な事から発展しているのです。だから「罪を憎んで人を憎まず」なのかもしれません。ですが、現実にはその被害者の立場になった時、素直に赦すことが出来るかと言われると、「はい」とは言えないと思います。私たちキリスト者であっても同じではないでしょうか。「そんなに簡単に赦せない」とか「いや、そうではない、本当に赦し合うことが無ければ信仰は無意味になってしまう」とか「何のためのキリストの十字架か」「十字架の赦しはこの全ての事柄の赦しでなければ、何の意味も無くなってしまう」等、議論は尽きないと思います。ですが、私たちキリストを信じる者が集う教会はこの「赦しの福音」を語り、宣べ伝えて来たのだし、この赦しのみことばを語らなかったら教会が教会でなくなってしまいます。「この世の現実がどんなに赦しの無い現実であっても、教会は真の赦しによって生きる人間の交わりを行ってゆかなければならない」とある神学者は言っております。それは、赦しの主体は、私たち人間ではなく、神であって、主イエス・キリストの十字架における愛と赦しの福音であるからです。ですから、冒頭に記載しました「祈り」のように、覆いかぶさってきた罪に対して憎しみと悲しみにあえぐ「祈り」には赦す言葉は出てこないのです。ただ身をかがめ震えながら祈る言葉が「こんな私をお赦し下さい」なのです。
先週私たちは、ペンテコステ(聖霊降臨祭)を向かえ、聖霊の導きに従って生きる喜びを改めて感じ、信仰生活を歩む力が与えられました。毎年迎えるペンテコステ、それは私たちキリスト者が

生涯信仰の道を歩むチェックポイントなのです。だらだらしてしまう信仰生活、祈りを忘れ、聖書から離れ、信徒の交わりを遠慮したり、そんな一年を過ごしてしまった時、神さまは霊を注いで下さり、私たちに「カツ」を入れて下さる所なのです。どんなに辛くても神さまの前に立って祈るなら、私たちを赦して下さり、恵みを与えて下さるのです。日々主の赦しの中に歩む喜びを抱きながら、互いに赦し合いながら歩みましょう。
アーメン







燈心TOPページへ 牧師のメッセージ 丸山さんの証し 小田さんの手紙 板垣さんの本の紹介