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生きて働いてくださる神様
高野 時雄

昨年の記録的な台風の上陸による被害(7・13の豪雨災害)から一年が過ぎ、その重苦しい日々を思いながら迎えた夏。その夏の日差しも和らぎ、秋風を肌に感じながら実りへの季節と移り変わる中、私たちの教会も2005年の後期日程へと、その準備等に追われています。9月18日(日)に計画している「教会バザー」、10月10日(祭日)に予定している「新潟地区伝道フォーラム」、10月30日(日)には宗教改革記念礼拝後「教会バーベキュー」を計画、皆で普段あまりお話できない部分を美味しいものを食べながら「だべり会」。そして11月23日(祭日)には恒例となっている「新潟地区一日神学校」を新発田教会で今年も行います。更に12月に入れば「キリストの誕生を祝うクリスマス」を迎えるのです。この様に実りの秋から祝福の年末まで多くの行事が取り組まれており、一つひとつの行事を大切に皆さんと共に作り上げて行きたいと役員会は期待しております。
春に種を蒔き、苗を植え付け水と肥料を与えて育てた植物も、秋には刈り入れ時を迎えます。私たちの信仰もこのプロセスと同じです。み言葉を聞き、伝え、祈り、共に学び歩く信仰の道。その信仰の道も楽な平坦な道ばかりではない、厳しいゴツゴツとした岩道、雑草に生い茂られ歩む方向を見失う道、光が閉ざされて自由が奪われる暗い道、私たちがキリスト者として生きて行く中で味わうその道はそう楽ではありません。しかし使徒パウロは云う、「厳しい道を歩むからこそ主キリスト・イエスに出会う事が出来るのです。そしてその喜びは大きい」と。苦しく厳しい出来事にぶつかれば逃げ廻るのが私たちではないでしょうか。それなのに逆に主は「厳しい道を選べ」と教えているのです。
そこで、種蒔きの話に戻りますが、種を蒔く機会に恵まれないと言う方がおります。確かにそうです。普段家庭や学校そして職場、人と人のお付き合いはあるが「信仰」のお話をする機械が無いと思います。いや、機会がないと言うより「きっかけ」が掴めないのだと思います。「きっかけ」を掴む一つとして教会行事に誘ってみることもその一つです。また、ある牧師さんが言っておりましたが、学校や地域の集会、職場の集まり会等で親しくなって互いに悩みをお話しできるお友達が出来たら、真剣にお話を聞いてあげたり相談したりする時「主イエス」のすばらしい愛を加えてお話をすると良いと言っておりました。この様に色々な人と出会いお話をする機会の中で「きっかけを掴み」主を伝える事が出来るのです。更に「12人の輪」の様に、キリスト者同士が一つの集会を定期的に開き、その集会にお友達をお誘いし、主のみ言葉を伝える事も出来るのです。
そのみ言葉を伝えるのには、伝えるものを理解しておかなければ伝える事は難しいかもしれません。今から40数年前には福音ルーテル教会や日本ルーテル教団、その他のルーテル教会が中心となって「ルーテルアワー」と言うラジオ放送を流しておりました。その中で紹介する「通信講座」を希望する方が受講し、一段階が終了すると次の段階に進むという講座を大勢の方が受講してキリスト者となられました。私もその一人です。今も他の教派では深夜放送網等を利用してキリスト教番組を放送していると言われております。
私たちの日本ルーテル教団はこの「電波伝道」をやめ、今はその役割を教会が担う事に変えてきております。「電波伝道」から「教会伝道」に伝道の役割を移して来たのは、「電波伝道」の様に不特定多数の人達に「キリスト教」を伝えるのではなく、地域教会の身近な人々に「主の福音」を伝え、地域毎に「神の国」を広げて行くことを目指しているからなのです。地域教会が伝道をやめたら、いくら中央が旗を振っても、み言葉は伝わって行きません。信徒一人一人の伝道の役割は大きいと思います。伝道の方法は沢山あります。皆さんが出来る内容で良いのです。み言葉を伝える者、讃美を捧げる者、祈りを捧げる者、また、自分の身体をフルに生かして愛情を表現する者などその人の能力に応じて「神の国」を伝えるのです。
この「神の国」とは各福音書で「神の国」とか「天の国」と訳しており「神の救いの支配」を意味しているのです。主イエス様の宣教と共に始まったこの「神の国」の発言は、聖書の各所で述べられているのですが、ルカによる福音書17・20〜21ではっきり言っております。神の国はいつ来るのですかとのファリサイ派の人々の質問に対して、イエス様は答えて言われました。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』といえるものではない。実に、神の国は遠い所にあるのではなく、あなた方の間にあるのだ。」とはっきり言っております。私たちの間にある神の国、それは信徒一人一人が集い、祈り、み言葉を学び、交わり、讃美する「教会」である事はご存知のことと思います。また、マルコによる福音書では「時が満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われておりますが、それは、神様の救いが近くなって、ちょうど良い時になったと言われたのです。このみ言葉こそ、私たちに語られる福音なのです、
ヨハネの黙示録3・20に、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている」とあります。主イエス様は戸口の外でたたいております。私たちの魂のトビラを一生懸命にたたいているのです。その声を聞いて心のトビラを開いて主イエス様をお迎えし、悔い改めの福音を宣べ伝えましょう。
私たちは、この様に神様が生きて働かれていることを心から信じて行くことが大切である事はわかっていても、実際の日々の生活では、どうでしょうか。私個人としては毎日の日常生活の中で、本当に神様は生きて働いておられるという信仰に生きているかというと必ずしもそうではありません。会社の仕事に振り回されて、朝早く夜遅い生活にそのことを忘れて、人間の知恵やこの世の価値観に従って歩んでいるほうが多いのです。目の前に起こってくる現実の出来事、自分に与えられている状況に心を奪われ、目に見えない神様の働きを見失ってしまうのです。何か大きな問題にぶつかると神様に依り頼まず、むしろこの世の力に頼ってしまい悪戦苦闘を重ねてしまうのです。なぜ神様に素直に祈り頼らなかったのかと後で後悔してしまうのです。「神様が生きて働いて下さっている」ことを信じて歩むならば、どんな困難につきあたろうとも必ず打開の道は開かれると教えられております。皆さんも「神に従って歩む」生活に目を向けて行きましょう。祈りましょう、主を信じて。
アーメン
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