高野さんの証し                            燈心TOPページへ


聖 霊

高野 時雄

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 私たちは、5月30日のペンテコステ(聖霊降臨祭)礼拝の時に、衝撃的な出来事について学ぶことができました。それは、主イエスキリストの12人の弟子たちが祈るために「一同が一つになって集まっていると、突然激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上にとどまった」(使途言行録2章1〜3節)出来事でした。突然予期しない出来事は、弟子たちには何がなんだかわからないままに、その炎のような舌にすべてを委ねたのです。そして炎のような舌である「聖霊」によって、語りかける者(宣教者)とされたのです。無学な漁師、人々に嫌われ、さげすまれる徴税人、イエスキリストの弟子たちは最初から立派な人たちではなかったのです。たしかにイエスキリストと一緒に伝道し、宣教を共にして歩き、たくさんの奇跡を目の当たりにしていたのだから、神様のみ力は身体で理解し身に染み込むほどに知っていたはずなのに、主イエスの十字架の場面では、イエスを裏切る者、3度もイエスを知らないと言い切る者、クモの子を散らすごとくに去っていく者。この様子は、イエスキリストがエルサレムに入場された時、「ホサナ、主の名によって来られた方に祝福があるように」と大勢の群集が歓迎の叫びを上げた(マタイ21章8〜11節)あの場面とは一転しております。何と恩知らずなと憤慨するだろうが、これが人間の一番弱いところなのです。誰かにすがりついていなければ生きられない人間、その頼りにしていたイエスが捕らえられ十字架に掛けられる。もしかしたら一緒にいた自分たちも捕らえられるのではないかとの不安が先行して逃げ出してしまったのである。このように弱みをさらけだして逃げ惑う弟子たちを救い、生きる力を注がれたのが炎のような舌である。「聖霊」なのです。ヨハネによる福音書16章7〜15節に「聖霊」について示されているが、この中で主イエスは聖霊を「弁護者」あるいは「真理の霊」と言っております。【聖書の一番後ろ側の用語の解説欄33頁に「聖霊」について、40頁に「弁護者」について記載されておりますので参照願います】弁護者とは聖霊あるいはキリストを指すのであって、神様の前で私たち罪ある人間を弁護し、とりなしをして下さるみ力(働き)なのです。また、聖書解説書によりますと「弁護者」は、助けを求められt「呼ばれて来る人」の意味があり、「慰める者」「励ます者」とも言われております。口語訳聖書で聖霊のことを「助け主」と訳しておるのも、助けを求める者の救いの主となられるからなのです。だから聖霊は「救い主」そのお方のみ姿なのです。「父なる神」「み子なる神」「聖霊なる神」と三位一体の神、ようするに真の唯一の神様なのです。【このただ一つの神様は、父と子と聖霊との三つの明確な神格でありながら、ただ一つの神様であられるのです(小教理問答書解説書より)】

ところで「聖霊」と言われて、私たちはどのように考え、何を思い浮かべますか?何か眼には見えないが力強く働きかけてくださる神様の力、また私たちが窮地に立たされたときに、そこからひょいと救い出して下さる不思議な力、あるいわ、私たちが誤った方向につき進んで行くときに、背中の後ろで私たちを正しい道へと軌道修正して下さる力。確かに聖霊には「今、この時に働かれる力」というイメージがあります。それは間違いではないようです。聖霊は私たちに対して自由に働いて下さっているのですから。

私たちが、ニケヤ信条、使徒信条によって信仰を告白しまう。その中で「聖霊を信じる」と告白するのは、ただ単に「眼に見えない所での神様の力」が働いていることを信じるということだけではないはずです。もっと明確な内容をもった事がらを信じ告白しているのです。それは、主イエスキリストご自身がヨハネ福音書152627節で「すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをするのである。」と言われるように、私たちは主イエスキリストを証しする聖霊の働きを信じて来ているのではないでしょうか?使徒たちの上に初めて聖霊が降りた時に、すべてを理解することが出来た弟子たちが、大胆に主イエスの十字架の死と復活、生前の数々の奇跡について証しをすることが出来たのも、数多くの国々の言葉を使って話されたのも、自分たちが語る行為が「主の救いのみ業」から来ていることを悟ったからであり、自分自身のためのものであることを聖霊の力によって気づかされたからなのです。聖霊の働きの原点はここにもあります。福音の真理を悟らせる働き、この働きにふれて、私たちは悔い改めに導かれ、救いの喜びを与えられ、感謝にあふれるのです。そして聖霊によって救われた者として胸を張って歩む事ができるのです。門をたたき救いを求めてキリスト者となられた(受洗者)皆さんは、自分が好き勝手に教会に来て洗礼をうけたのではありません。聖霊が注がれなければいくら自分が追い求めてもみ業は与えられないのです。私たちは聖霊の働きによって今の自分が有ることをしっかり理解して信仰生活を歩みましょう。「力強い聖霊が私たちを捕らえて下さっている」これほど心強い事はないでしょう。何ごともすべて主なる神にゆだねてキリスト者として愛と感謝の中に一日一日を大切に歩んで行きましょう。

 聖霊の霊という聖書の言葉には「風」の意味があります。聖霊の風ですね。さわやかな風、窓を締めきっていては新鮮な風は入って来ません。教会の窓はいつも開いておき、さわやかな風を注いでいただき、私たちの心の窓も大きく開放し、聖霊の風を迎え入れましょう


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