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私たちが信じている神
高野 時雄

礼拝式文の中に使徒信条が有りますが、最初の言葉は「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」です。「全能なる神」なんと力強く、頼もしく頼れる呼び名でしょう。この様に、私たちが信じる神様はすばらしい力の持ち主なのです。創世記17章1節に「アブラハムが九十九歳になったとき、主はアブラハムに現れて言われた。『わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。』」と記載されております。そうなのです。主が言われるように、私たちキリスト者の日常生活は神様を信じて歩む生活からスタートするのです。だから朝起きたらまず祈る、そしてみ言葉(聖書)に触れ、賛美をする、この事から日常生活が始まるのです。では、神様を信じて生きる生活とはどのような生活か考えて見たいと思います。皆さんは、神様がただ宇宙のどこかにいると言うことだけを信じて生きておりますか。そうではありませんよね。これでは神様は他の被造物と同じになってしまいます。外国のエミール・ブルンナーという神学者は「神様は決して他のものと並んで存在するものではありません」と言われ「神様は世界の中には存在しません。反対に世界が神様の中にあるのです」とおっしゃっております。更にこの神学者は、神様を信じて生きることは、この世界に存在する他のものと同じように、神様がどこかに存在すると信じて生きることではありません。そうではなく、私たちの身も心も魂も、すべてを神様の前に向けて開き、神様と共に歩む生活なのです。神様が私たちの内に生きて働いて下さり、私たちが神様の内に生かされるようなあり方。そこに神様を信じて歩む者の幸いが有るのではないでしょうか。使徒パウロは口語訳聖書のピリピ人への手紙3・12で「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕らえようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕らえられているからである。」と言っております。この様に神様は私たちが求める物すべてをご存知なのです。だから祈るときも長々と祈るのではなく、すべてを神様に委ねて祈ることなのです。私たち人間は弱い者で、一旦何か人生の生き方につまずいたり、大きな病にあったり、大きな災いにあったりしますと落ち込んでしまいます。そして「神様、どうして」と必死に祈ります。しかし、詩編23編4節では「死の陰の谷を行くときも私は災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」と私たちに、神様が共にいて下さることを教えてくださり、励まして下さっているのです。あるキリスト教誌に、この詩編の箇所を読んで病を克服された記事が記載されておりましたが、この中に登場するご婦人は「命を与えて下さったのは神様。命をお取りになるのも神様。だったらすべてを神さまにおまかせしよう」と思い祈ったそうです。すると不思議に平安に満たされ「もう大丈夫」と思ったそうです。そして病も回復の方向に向かわれたそうです。この記事を読んで、これが神様を信じて生きる姿なんだなと思いました。神様を信じる者の喜びを肌で受け止められるのは、私たちに生きて働きかけて下さる愛なる「全能の神」に従って歩むことではないでしょうか。日々み言葉に親しみ、祈り、賛美する生活。キリスト者に与えられた特権です。神様の前に立って何を求めますか。既に神様はあなたの求めている事はご存じです。心安らかに祈りましょう。
アーメン
