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み言葉を伝える
高野 時雄

「あなたはキリスト教を信じていると言うが、キリスト教とは一口で言ったらどんな宗教」と尋ねられたことはありませんか。そんな時、さて何から話したらよいものかと戸惑ってしまいますよね。そうなのです。キリストを述べ伝えるのに一口で伝える訳にはいかないのです。でも「私の信じているキリスト教はこう言う宗教」です、と言うしっかりしたものを持っている必要があります。
日本人の多くは「キリスト教は外国の宗教」と考えております。特に地方農山村地域は都会や市街地とは違って、古くから伝統的習慣が残っており、それをしっかり守っていく、いや守らなくてはならないとの根強いものがありますから、外国から宣教されて来た宗教をなかなか受け止めることが出来ずにためらうのです。日本には古くから「神道」プラス「天皇制」そして「仏教」、これらを絡めた歴史と文化が残っており新しいものを受け入れようとすると、それらが拒否反応を起こしてしまうのです。しかし時代をさかのぼるならば日本の仏教も外国から宣教されてきた宗教である。その仏教も宗教として残っているのではなく、死者を弔う葬式のための宗教に変身してきており、お彼岸やお盆と言った法要がらみに利用されている宗教になっているのです。しかし最近はそれではいけないと仏教大学や大きな寺院では、宗教として「釈迦」の教えを説いていこうとしている。が、一度このような形に変化してしまうと、原点に戻るのにはかなりの年月を重ねなければならないでしょう。
ある雑誌に、日本の若者に「あなたの宗教はなにか」尋ねたら「知らない」と言う返事が今までは大多数であったが、最近それに微妙な変化が起こり始めていると言うのです。それは「仏教」と答える人が多くなってきていると著者は言っている。その理由の一つに海外旅行に行って相手国の人に「あなたの宗教はなにか」と尋ねられた時「私は無神論者」と言うと「格好悪い」から日本から来たのだから「仏教」と行っておけばそれなりに格好は付くだろうと「自称仏教徒」になりすましていると言うのです。中には「キリスト教」と答える人もいるが、キリスト教国に行ってキリスト教なんて言うものなら、すぐに教会を紹介されて連れて行かれるので、よほどキリスト教の知識がないと答えられないと言う。
この様に日本人の宗教感ほどあいまいなものはない。日本の中には宗教と称する団体は数多くあります。そのほとんどが新興宗教で「ごりやく」を前面に出して布教活動をしている。このような生活環境の中で「主のみ言葉」を伝えていくのには「キリスト教」そのものをしっかり理解していただかなければならないと思います。それには最初から難しい聖書をといても理解していただけない。聖書の中で主イエス・キリストは「私は口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる」(マタイ書13章34〜35)と言われるように、奥深い主のみ心を知ることは、そう簡単にはいかない。だから私たちは「たとえ」によってその恵みを知りあずかることが許されるのです。
だから私たちは「たとえ」によって理解したみ言葉を「たとえ」によって伝える事が大切ではないでしょうか。聖書に書かれているすべてが「神」であるのです。だから「キリスト教とはどんな宗教」と尋ねられたら「聖書」ですと答えれば良い事で、聖書に何が書かれているかは、そのときの質問によって聖書の箇所を開いてお話をすれば良いのです。「福音」(キリストによって人類が救われると言う、喜ばしい知らせ)を述べ伝える基本は「聖書」にありますから、「聖書」を離れてのみ言葉の解き明かしは考えられないのです。「たとえ」を使っての「証し」は聖書の中のみ言葉を引用して伝えれば良いのです。
私たちは「自分はこんなたとえを用いてお話をする」と言ったものを心に置くと、み言葉を述べ伝えるにも気楽にお話が出来るのではないでしょうか。
私たちの教会は今、「わたしには、この囲いに入っていない羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。(ヨハネ書10章16)」のみ言葉に立って、十分の一の祈りを呼びかけております。自らの十分の九は精一杯自分のために、しかし、自らの十分の一は神様のために用いて、隣人としての責務に高ぶることなく身を投じて行きたい。この祈りによってみ言葉が述べ伝えられて行けるよう力を注いで行きましょう
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