高野さんの証し                            燈心TOPページへ


教会

テキスト ボックス:  十年前のことであるが、私たちの教会に福音系と名乗る一人のキリスト者が訪れたことがありました。その時、この人に、この教会は新しくてJRの駅にも近いし、利便性にも恵まれていて良いですね、何か教会として特別な伝道計画を立てて行っておりますか?と尋ねられました。その時はあまり明確なビジョンもなかったので、ありふれた教会行事をのべるだけしかできませんでした。この人はいろいろな教会を尋ねて回り、その立ち寄った教会の特徴などを学び取り、自分たちの伝道に反映していきたいとの思いで教会を巡り歩いているとのことでした。この人が帰り際に私たちに、お宅の教会も何かひとつ新しいことに取組んで挑戦してみてはどうですかと言われ、その時は「そうですね、考えてみます」と、ありきたりの答弁でその場はすませました。

あれから十年、教会は牧師先生の突然の他教会への招聘のための辞任、無牧、新しい先生の招聘、おかげさまで神様の恵みによって徐々に教勢も伸び、経済的にも何とか維持できるようになって来ました。

しかし私は、あの時言われた「何か新しい事に挑戦してみる」ということを、実際に何一つ具体的に行って来ていません。ただ牧師先生の指導や助言によって、新津教会の礼拝を担当することを与えられたり、教会学校の礼拝に御言葉を話す機会が与えられたりは、十年前にはなかったことなので、新しいことに挑戦したことになるかもしれないが、私自身が自分の考えとして始まったことではないので、いま一つ複雑な気持ちです。

教会とは、「主イエス、キリストによって呼び集められた人々の群れ」であることをしっかり心にとめておるならば、教会内外に関するすべてに関心が寄せられ、人任せにならなくなるのではないでしょうか。教会は役員会のものでもないし牧師のものでもない。だから教会は「共同体」と言う意識を持つよう願うのです。昔は教会というのは「教える会」として教える者と教えられる者の区別が明確になっていました。だから教える者と教えられる者の間には、一つの境が生じ、ほんとうの心の分かち合いが出来ないままで来たのです。だが最近は「信徒と教職が共に担う宣教」と宣言されるように、信徒と教師の距離を縮め信徒も牧師も一つの共同体として福音の宣教にあたることが確認されてきているのです。

「私がこの教会を守らなくては」と傲慢な気持ちでたずさわる信徒たちがいるとするならば、共同体は破壊されていくでしょう。なぜなら共同体は主イエス、キリストによって存在させられているものであって、私たちの努力の結果や理想の思いだけで成り立っていないからです。主イエスによる霊的な現実があるから共同体が存在するのです。先月私たち新発田ルーテル教会の今年度の会員総会が開催されました。行事、予算共昨年と変らない内容であるが、しかし昨年の収支決算は世論に影響してか、私たちの祈りの欠落の思いからか、非常に厳しい数値となりました。結果は誰を責めるものではないが、神は私たちに何か与えようとしているのではなかろうか、そう思えるのです。今年は、共に生きるキリスト者として、何が出来るかを考え前に進めたらと願っております。それには「自分は主に集められた群れの一員」であるとの意識を忘れないよう日々の信仰を送ることであります。「共に生きようと意識する時、神は愛(恵み)をその場その時に応じて、さまざまな形を取って与えられます」と聖書解説書に記載されていたのを読んだことがあります。神は意志を立て行動する中に必ず恵みを注いでくださると言う確信が持てるのではないでしょうか。昨年は「十分の一の祈り」を皆さんに呼びかけて来ました。もちろん今年も引き続き皆さんと共に祈り続けてまいります。自分の身近な人(隣り人)のために十分の一を主に捧げることなのです。昨年新潟地区教会会議主催の「伝道フォーラム」において提示された「十二人の輪」について今年は話し合いが持てたらと考えております。この会は福音の分かち合いと宣教を目的にした小グループの集まりなのです。何らかの理由で礼拝を守れない人たちに対する集会でもあるのです。もちろん教会の主体は神を賛美し御言葉に聞く礼拝であることはいうまでもありません。共同体である教会、その上に主の聖霊が注がれるのであるから、私たち教会に連なるひとり一人が、共に御言葉に聞き、祈り、主に従う生活を送ることが出来るならば教会は、主に整えられた道を歩むことが出来るでしょう。

主よ、この一年意志を立て信仰の道を歩めるよう支えお導き下さい。 アーメン

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