松田さんの証し                            燈心TOPページへ


イースターを迎えて

松田 康子


毎年春になり、新年度を迎えると「新しいスタートだ。おめでとう。さあ頑張ろう!」と言う雰囲気が周囲から押し寄せて来る気がします。息子の入学もあり、今年はなお更それを感じていました。当の息子はというと、そんな雰囲気とは関係なく、むしろ自分の意思に関係なく急に違う世界に放り込まれて、これから自分がどうすればいいか分からないと言う不安や戸惑いの方が強い様子。少なくとも息子にとっては「希望に胸を躍らせて」のスタートではないようです。「今日は学校で何するの?」「体育ってなに?」と新しい事に出会う度に毎日心配しています。「性格だよな〜」と思いつつ、でも新しい世界に入る時ってそういうものかもしれないと考えます。一つ一つを自分で経験してやっとその事を自分でもわかって行く、そうするとだんだん脅えずに安心してそこに身を置いていられるようになって行くのでしょう。
そう考えながら息子を見ている私も、実は同じような感覚の中にいました。入学やイースターの準備をしながらも、自分の中から希望や喜びが湧き上がってはくれず、どんどん進んで行く状況に無理やり自分を合わせてなんとか頑張るのが精一杯。不信仰だと思われるかもしれませんが、でも、正直そんな心境でイースターを迎えたのです。
周囲では確実に新しいスタートが切られているのに、それについて行けず戸惑っている自分。ぽつんと一人で突っ立っているような、なんだか変な感覚の中で復活の話を聞きました。
死というのは、人間である弟子たちには終わりを意味するものだったと思います。イエス様が亡くなったことは、たとえそれまでにイエス様から復活について聞かされていたとしても、弟子たちにとっては唯一の希望が取り去られた絶望的な出来事だったろうと思います。婦人たちもそんな絶望感に包まれたまま、墓を訪れたことでしょう。  
ところがその墓は、遺体の無い墓でした。その遺体の無い墓の中で、天使からイエスの復活を告げられ、婦人たちの絶望は、今度は驚きと戸惑いに変わります。話を聞いた弟子たちにとってもそれは「たわごと」としか思えず、信じられなかったと聖書には書いてありました。
イエス様の復活という出来事は、それを実際に体験した弟子たちにとっても、「たわごと」であり驚きであり、信じられない戸惑いだったのですね。すぐさま「イエス様が復活された!」と喜びに包まれたわけではなかったのでした。それは人間の限界でもあるし、当然の事に思われます。でも、そういう驚きや信じ切れない自分への戸惑いの中で、確かにイエス様の復活は始まったのでした。
人が信じても信じられなくても、神様によってイエス様が甦られたから復活が起きたんだ・・・。そう思いをめぐらせながら「私たちは復活の中にいます」という先生の言葉を思い出した時、本当にそうなんだなと納得しました。自分が信じられるから復活があるのではなく、神様が起こした復活でした。だから、たとえ戸惑いと不安が心にあったとしても、実は今私たちはその復活の真っ只中に置かれていたのです。
説教の中で先生は、「十字架によってイエスの戦いは終わり、復活が始まった」と言われました。復活は結末ではなく神様の業の始まりです。その復活の中に置かれているということは、私たちの教会の中でも、その業が始まっていると言うことです。これはやはり、自分にとってまだまだ戸惑いであり、「これからどうなって行くのか」と言う不安もあります。でも、それでも良いのだと思います。私たちがどうであれ神様がそれを起こそうとなさっていることに委ねます。
これまでも、そして今も、私たちがイエス様を思い、祈る時、それは復活のイエス様だった! 
そのことに出会えたことに感謝します。


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