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待降節を迎えて

松田 康子

ある日の説教で先生は「イエスは私たちの前を行かれるお方だ」と言われました。マルコによる福音書の6章45節からのイエスが湖の上を歩いたというお話の時でした。私はそこを読みながら、どうして強いて弟子たちだけで行かせたのだろうとか、どうして一旦は通り過ぎようとして後から船に乗り込んだのだろうなど考えて、イエスの行動の意味(しかも、何か教育的な意味みたいなもの)を探そうとして困っていました。ですから、先生の言葉を聴いて「え、それだけ?」と思ってしまいました。自分が欲しがっていた疑問の答えとは全く違っていたからでしょう。でも、確かにそうなのです。聖書には私たちの前を一人で歩いていかれるイエスの姿がありました。そしてふと、イエスの言う「私に従って来なさい」という言葉の事を考えました。私はつい「どのようなやり方で従うのが良いか」と言うふうに考えてしまいます。だから、教会からの帰りは一人車の中で「大反省会」みたいになってしまってしまい、正直に生きたいという気持ちとも矛盾してもやもやし、一体どうすればいいの?と訳が分からなくなることもありました。でも、イエスに従って行くということは、手取り足取り教えられて間違えないようについて行くことではなかったのですね。イエスは一人ででも自分の道を進んでいかれるお方なのだから、弟子たちの事もそれぞれが自分の意思と歩き方で歩くものとしてご覧になっていて、そういうものとしてついて来いと言われているのかなと想像してみました。だったら、これでいいのか悪いのかなんて必要以上に思い悩んでぐずぐず言うのはやめようと思いました。私が従おうと決めたのは周りの誰かじゃない、私の中にいる(はずの)イエスでした。だから無様でも何でもいいから歩きたいです。
 先生はその後「イエスは前を行かれる方。しかし顧みてもくださる。それが慈しみです。」とも言われました。本当にそうなのだと思いました。

教会はアドベントを迎えました。私の日常生活も「師走」の名の通り、何だかよくわからない気忙しさに突入しています。その中で私の頭の半分では、ダーっという効果音付きで日々の予定に追われ焦らされる事もしばしばですが、もう半分には静かな気持ちでクリスマスを迎えようとどっかりと座っている自分が居て不思議な気がしています。

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