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やもめの献金

松田 康子

教会学校で聖書のお話に初挑戦した時の聖書の箇所は、マルコによる福音書1241節から44節、貧しいやもめが有り金全部のレプトン銅貨二枚を献金箱に入れた時のお話でした。

 このお話を読んで、単純に「この女の人はすごいな」と感じました。次にいつものごとく、自分だったらどうかな?と考えると、正直言って分からないと思いました。少なくとも、「はい、私もそうします」と自信を持って言えないと感じました。
 「やばい。自分ができないと思っているのに、子供たちに、この女の人を見習いましょうなんて言えない・・・」と思いながら、テキストにしている蓮見和男先生の本とともに読み返しました。そして、イエス様はどうしてこの女性に目を留められたのだろうと考えてみました。イエス様は小さいものに目を注がれるけれどそれは「小さいから」なのだろうか。イエス様は、大きくても小さくても神様に信頼を置いて誠実になされたことに、大きさに関係なく目を留めてくださるのではないの? それとも全てをささげなさいと言われているのだろうか。そうすると十一(といち)※のささげものの事はどうなるんだろう。色々考えても今ひとつ自分の中でピンと来ませんでした。
 イエス様はこの女性の行動にどのような信仰をご覧になったのだろう。私はこの女性の何をすごいと感じたんだろう。もう一度この時のこの女性の状況を考えてみました。

 イエス様の言葉にあるようにこの人は「乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部いれた」のです。つまりこの女性は生活費がレプトン銅貨二枚しかないほど貧しい人でした。これほど貧しければ、献金できないとか献金しないことの理由にもできたはずです。でもこの人はそうしなかった。貧しいけれどする方を選んでいます。このことがすごいと思いました。この女性は、レプトン銅貨二枚とともに自分の選択と意思を神様にささげている様に感じます。イエス様は、この選びに女性の信仰をご覧になったのではないかと考えました。

 何かやるべき事に出会うと、「自分には能力がない」「小さい、弱い」「大した事は出来ない」と言うような不安を引っ張り出してきて、「できない」「しなくていい」と逃げたくなる自分がいるのは確かです。でも、せめて自分が大切にしようと決めたことには言い訳せずに、小さかろうが自信がなかろうが精一杯の事はやって行こうと思いました。出来るか出来ないかで考えるんじゃなくて、一つずつそうやって選んで進んで行くんだよ、と教えられたお話でした。

土地から取れる収獲量の10分の1は、穀物であれ、果実であれ、主のものである(レビ記27章30節)

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