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YUKOのオルガン修行録
〜本当に伝えたいこと〜

                                                     丸山 裕子

 技術の進歩によって、現代社会に生きる私達のコミュニケーションの形が大きく変化しているように思います。
 例えば携帯電話もその中の一つです。何時でも何処でも、私達は連絡を取る事ができるようになりました。電子メールも文字に書くという手段を取り、最短で連絡を取る事ができるようになりました。現に、この私も海の向こうからこうして燈心の原稿を即座に送信することができます。相手に何かを伝える手段が大変便利な時代になりました。しかし、この便利な時代の中に生きていて、私達は本当に伝えたいことを伝えているのだろうかと、疑問に思います。
 「ねえ、ねえ、お母さん聞いて!あのね、今日ね、学校で私、先生からたくさん誉められたの!」靴を脱ぐ事さえもどかしく、伝えたいことがあって台所の母親のところまで走った記憶はないでしょうか?
 お世話になった方に「ありがとう」を伝えたくて、真新しい便箋を何度も無駄にしながら、お礼状を必死になって書いた記憶はないでしょうか?
何かを相手に伝えたいという気持ちの時は、心が伝えたい人に向かって大きく動いている時だったように思いませんか?
 でも、今の時代に生きる私達は、携帯電話や電子メールの便利さに囲まれて、伝えたい気持ちがお行儀よく、おとなしくなってしまったように感じます。

 ルーサーセミナリーのクラスで礼拝学と言うクラスを取った時の事です。生徒一人一人が日曜日の聖書日課を礼拝の中で拝読するという練習がありました。
 聖書の拝読は単なる朗読とは異なります。聖書の個所の何処が大切なのか、何処が祈りを持って拝読されるのかが司式者にあったのと無かったのでは聞き手側に大きな差異を与えることを学びました。司式者とは式を進行する係りの人ではなく、礼拝の中で伝えるという役目をうけた、大きな仕事だと私は思います。
 オルガンの世界でも同じ事が言えると思います。オルガンと言う楽器は構成上、ピアノと異なり、鍵盤を弾く自分の指で強弱を作る事ができません。要はオルガンの鍵盤をバンバンたたいても、大きな音が出ません。それでも、オルガン奏法の駆使によって強弱が生み出され、作曲者の伝えたい事、演奏者の伝えたい事がオルガンの音となって現れます。
 こうして考えてみますと、何かを伝えるのは手段ではなくて、伝える側の気持ちのように思います。伝える側の気持ちを考えさせられるのは、教会の中で、特に日曜礼拝の中で、とても頻繁におこっているように思います。
 「私は司式者でもないし、オルガニストでもないから関係ないです。」と思われる方がいるかもしれませんが、私達がキリスト者として礼拝に集う時、一人一人が伝える立場に置かれるように思います。なぜかと言いますと、讃美歌を賛美する時がその一つです。讃美歌とは単に歌う事では無く、私達の賛美の声を共にして、神様に伝える事だと思います。喜び、感謝、祈りを賛美の声にして、私達は本当に神様に伝えているのでしょうか?心が神様に向かって動いているのでしょうか?はい、それでは大声で声を枯らして讃美歌を歌います。ということではありません。要は私達の気持ちが本当に伝えたい人に向かっているのか?という事だと思います。
 イエス様は携帯の番号も電子メールのアドレスも持っておられません。でも私達の賛美の声、祈り、叫び、悲しみをいつも聞いていて下さっています。
 「神様。聞いて下さい!」日曜礼拝に集う時、賛美の声を上げる時、祈りの声を上げる時、私達は本当に伝えたい事を神様に伝えているのでしょうか?心が神様に向かって動いているのでしょうか?






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