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神様の声

五十嵐弘美

 
「ですから、これからも聖書の言葉に耳をかたむけて行きましょう」
 これは教会学校でお話しをする時、しめくくりに私が多用する言葉です。最近娘はひねくれて来たため、こんなことを言うと「聖書に耳くっつけて何か聞くんだ〜!へ〜」なんてヘ理屈で突っ込んで来そうです。「口ごたえするんじゃありません」と言ってしまえば簡単ですが、「そうじゃなくて」と冷静に説明できないという事は、自分でもそんなことはできはしないと思っているからでしょう。  
 ミネソタから丸山さんが燈心の原稿を送って下さると、皆さんには申し訳ありませんが、真っ先に見せてもらいます。今回の原稿を読んで驚いた事があります。丸山さんにも「神様の声が聞こえない時があったんだ〜」ということの前に「丸山さん、いつも神様の声が聞こえてたんだ!」という事です。
 以前はとてつもなく不安な時、自力ではどうしょうもないと思える障害に直面すると、「神様〜」と祈り答えを求めていました。その時もやはり「おい、おまえ。それはな……」という声は聞こえませんでした。絶体絶命だ〜と思っていたその障害が頭の上を過ぎ去った後、よく考えてみるとさまざまな助けやのがれどころがあった事に気づき、神様に感謝した経験はあります。だから「神様の声」とはそうしたものだと納得していたのです。
 丸山さんは「生まれてはじめて音楽が苦痛に思えた」と表現していましたが、「召し」を受けて選んできた道と思っていたものが、「そうじゃないかも……」と思い出したら、それはそれは不安と迷いとで苦しい思いをされたと思います。そんな時、神様の声は聞こえなかったけど、お友達の電話口でのなぐさめの声、教授のコメントの言葉。それらが丸山さんを絶望の淵からひっぱり上げたのです。
 そういえば、伊藤由美子姉が受験当日に、偶然乗ったタクシーの運転手さんがものすごく親切だった話しを聞いた時は、「神様がタクシーの運転手になった…」と思ったのを覚えています。「靴屋のマルチン」の紙芝居の中身は、もううろ覚えですが、いろんな人になり替わって神様はマルチンに何かを伝えようとされました。
 そう考えると「聞こえない」と思っていた神様の声は、丸山姉の書かれていたとおり「聞いてない」だけだったのではないかと考えられます。私はまだ「聞き分ける耳」を持ちえていないと思います。しかし、丸山さんの原稿を通して「聞いとけよ」という声を聞いたと感じました。
 あいかわらず私には「おまえ……」は聞こえません。でも「聞け」ば聞こえるような気がして、すこし安心しました。

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