牧師のメッセージ 燈心って何? 燈心Topページへ

ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に収めています。この並外れて偉大な力が神からのものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。私たちは、四方から苦しめられても失望せず、虐げられても見捨てられず、打倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。

コリントの信徒への手紙二 4章7〜11節

教会はキリストの体

 今日、つまり1012日で説教する聖書の個所では、一人のぶどう園の主人が登場してきます。彼は自分のぶどう園で働く労働者を雇うために、まず夜明けに(お話を読んでいくと多分朝の6時ごろだと思えます)出かけて(多分これも、日雇いの人々が集まる広場があったと思われます)人を雇い自分のぶどう園におくります。次に朝の9時、次に12時、そして午後3時。しまいには午後5時にも出かけ、そこに雇ってもらえずうろうろしている人を見かけ、彼らに声をかけて自分のぶどう園に送るのです。夕方になって(多分これは午後6時ごろです。そうすると、最後の労働者は1時間くらいしか働いていません)、一番後に雇った人から順に賃金を払っていくという物語です。

物語のテーマは、仕事を手に入れることのできない労働者に仕事を与えようとする気前の良い主人の中にあらわされているのですが、この物語を読む中で、一つ考えさせられたことがありました。それは「仕事」ということです。主人は仕事を与えようとしている。しかしその仕事を手に入れた労働者はいくら賃金をもらうかということに関心を示します。物語のくだりには、なぜかご主人は最後に仕事に就いた者から賃金を渡していきます。彼は確かに約束通り1デナリオン。それを見たことがたぶん関係しているのですが、最初につまり夜明けごろに雇われた労働者は、確かに約束は1デナリオンだけれども、もっともらえるかもしれないと思ったわけです。そして、最後に自分が賃金をもらったときに、1デナリオンしかもらえなかったことで、不満を露わにします。結局「仕事」とは、いくらもらえるかなんですね!

ドイツ語でBeruf(ベルーフ)という言葉がありますが、この言葉には「職業」という意味と「召命」という意味があります。ルターはこの点を使って仕事は神さまからの招きである、と言っています。私たちはもはや仕事について、神さまからの招き、召しなどとは考えなくなりました。たぶん、ルターの時代もそうだったと思います。仕事は結局いくらもらえるかだったのでしょう。また、仮に「召し」という言葉を考えても、たいそう高尚な言葉ですから、ちょっとそこらで仕事しているとか、仕事に成功した失敗したというたぐいの仕事をしている私たちにとって程遠い言葉となりました。だから、仮に「この仕事に神さまから召されている」と思っていても、自分の中で謙遜にひそかに信じている分にはいいのですが、一言いうものなら、周りから生意気だとつぶされそうです。

さて、この物語を読むに関して、あの主人は神さまです。神さまは愚かな姿をとり、夜明けに、9時に12時に3時に、そして5時に労働者を探します。仕事に与らせたいのです。神さまのぶどう園で働いてほしいのです。労働しようという意欲が沸き上がれば取りあえずよいようです。才能も問わない、人間の質も教養も問わない。ある意味で、才能や質の視点で選ばれた人々は他の主人に既に雇われてしまった。そして、結果的にはそこには余された人々がいました。そして、しまいには仕事にあり付けず一日が終わってしまう人がいました。主人はその人に声をかけます「わたしのぶどう園で働かないか」…。そういうふうにして仕事にありついた人がいるでしょうか。また、そういうふうにしてまで労働者をさがしているご主人はいるでしょうか。

神さまは労働者を求めています。善い人が見つかれば確かにそれはそれでよい。しかし、神さまの考えはそうではないようです。仕事をしたくても働けない人がいるのです。そのようにしてうろうろしている人に目を向けます。そして、見つけると、もはや午後の5時で仕事が終わる時間に近づいていても、その人に仕事を与え、命を得させようとなさるのです。神さまは今も仕事を与えよとしているのです。

神さまが仕事を与えようとなさっている。これが考えたことの一つです。私たちは仕事を結局はいくらもらえるかという価値でしか見ていないけれども、神さまは神さまの仕事を与えたいのです。一日1デナリオンです。食べては行けます。そういう仕事をする人を神さまは求めております。

「教会」。長い間教会に集まってきている人々にはもう当たり前になり切った言葉です。しかし、新たな思いで、そしてこの話との関係で考えたいのです。そうすると、教会は神さまが雇った人々の集まりです。そうすると、集まった人の中には仕事を与えられた喜びがある。召された喜びがある。しかし、いろいろな経験の中で、結局いくらもらえるかがその中で議論されていくのです。神さまの仕事をする集まりが、そうではなく自分がいくらもらえるかという議論にすり替わっていくのです。しかし、この物語はそういう問題のある教会に対して鋭く本心に立ち返りを求めます。本来的な神さまの働きの中に私たちを連れ戻していきます。そして、教会は神さまのぶどう園で働く労働者の群れだったのですね。

その教会を、パウロは「キリストの体である」と言いました。この言葉もある人々にとってはすっかりとなじみのある言葉になってしまっているのですが、ふと考えてみると教会を「キリストの体」と言ってしまうことが大変特異なことであると思えます。改めて自分の心に立ち返り、「教会を別な言葉で置き換えろ」と言われた時に、果たして私たちは「キリストの体」と思いつくでしょうか?そういう意味で、私にとってはこのパウロの発想が大変意味深く思うのです。「キリストの体」という言葉をなぜパウロが使ったのか?調べると、パウロが影響を受けたストア哲学が関係していると出てくるのですが、それにしてもキリストの体と言い表したパウロの言葉は画期的です!そして、彼はたぶん、教会を「キリストの体」と言い表した時に、いろいろなことがひらめいたと思います。

今、教会を「キリストの体」として考えるとき、いろいろなことが浮かび上がってきます。まず、教会は一人ではないということ。だから団体なのですが、団体という時に問題もたくさんあります。一番悪い例は、「皆がやっているから私もしている」です。これはただの言いなりの集まりです。ではそういう問題があるから、今度は一人のがんばりに身を置きます。そうすると今度は「体」ではなくなってしまいます。主体性という意味では一人一人の自覚は大切ですが、そうすると体ではなく悪く言えばただの自己主張の集まりです。教会は体です。体になって教会になるわけです。体であってはじめてキリストが証されます。教会は力任せの全体主義ではないし、圧力団体でもありません。しかしその集まりが体になる必要があります。そうすると、個人のレベルにおいては主体性のみならず、体の中の一人としての私というテーマが出てきます。そのテーマに向かう時に、つまり体としての自覚とそれにあっての行為に出るときに証できるものがあります。それがキリストです。

教会には問題があります。たくさん。教会はこの世と違った世界ではなく、この世と同じ悩みを持ち、罪を持ち、しかし、そのことを持ちながらも体として立ち上がる。あのぶどう園の譬えに出てくるねたんだ労働者もまた教会にいます。自らの熱心さが信仰を利用しながら自己利益に結び付けている人もいます。自らの歴史の長さを利用した利益主義者もいます。しかし、そういうことがあっても、教会は「キリストの体」であり、内に問題を持ちつつも体としての責務を果たします。

目を天に向け、「み国を来らせたまえ!」と祈り、贖われることを信じて前に進んでいきましょう!

新発田ルーテル・キリスト教会牧師
士反 賢一

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