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使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根をおろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。

ルカ福音書17章5〜6節

からし種

イエスが譬えでお話しされたときに、からし種を用いたことは皆さんご存じだと思います。このからし種については、マタイの福音書では一つは天の国のたとえで出てきていて、イエスはからし種を使って天の国について話されました。そこで言われていることは、「どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜より大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」ということです。イエスは譬えのために何でもかんでも用いるというのではなくて、世の中にあるものの中からあるものを意図的に選んでいます。それは、めずらしいものではありませんでした。誰でも日常でよく見かけるものでした。すっかり当たり前になっているものを譬えのために用いました。野の花、空の鳥…。そして、からし種もその中の一つ。そしてこのからし種は、いと小さいものを代表するものです。
 
 世の中にいと小さいものが多々あります。その中の多くは、はじめに小さくそして終りにおいても小さい。しかし、始めこそ小さいけれども全てをこえて大きくなるものがある。しかも、ただ大きくなっていくのではなくて、その枝を用いて鳥がその営みをするという、他のものが命を育むというものがある。イエスはごく当たり前の生活の中をよくご覧になっていたのでしょう。それも小さなものを注意して見ておられたのでしょう。大きなものならば、ある特定の特権に与った者だけしかそれを手に入れることはできません。本当に少数の人々にしかそれらを手に入れることはできません。しかし、小さいものならば、誰もがそれを手に入れることができる。というよりも、誰もが持っているものです。しかし、その小さいものはその多くがむげにされてしまっています。ただでさえ小さいものが、それを人々がさらにある特定の価値観を持って計り、さらに小さくしてしまっている。そのような小さいものは果たして本当に小さいのでしょうか。
 
 小さいということ。その中に二種類の小さいものがあるように思えます。ひとつは始まりにおいて小さく終りにおいても小さいという小さい。もう一つは、始まりにおいてこそ小さいが、その終わりは全てをこえて大きくなるという小さい。さらには他の命を育むという小さい。イエスは、そのように存在しているからし種を意味をもって譬えに持ち出しました。それも、特別なところで手に入れることが可能というのではなくて、いとも簡単に手に入れることができる、目の前にある当たり前の小さなものです。当たり前の小ささ。それは私たちのそのほとんどが所属している小ささです。そして、イエスはそれを通して天の国をお示しになったわけです。決して、イエスは大きなものに目を向けなかった。大きいもののことを知っていても、いとして天の国と大きなものとは結びつけなかった。なぜなら、彼は知っていたと思います。大きなものを天の国と結びつけるなら、その大きなものはただ傲慢に存在するだけであるということを…。


 そのからし種をお用いになって、もう一つのことを譬えで示されました。それが、今回の聖書の個所です。やはりここにおいても小さいということがテーマになっています。そして、からし種を用いて「信仰」についてお話になりました。

使徒たちが「わたしたちの信仰を増してください。」とイエスに求めました。その理由については書かれていませんが、この個所では1節で「弟子」という言葉を使っていることから考えると、その弟子たちが実際に派遣されて「使徒」として働いていた現場で、そのただ中で何らかの困難にぶち当たっていることが考えられます。ですから、実際の場で、あるいは生活の場での問題であったようです。使徒たちはその時に考えました。「自らが小さいから、問題を乗り越えて行けないのだ」と。実際に、私たちも使徒たちのように大きな働きをしているわけではありませんが、多かれ少なかれこのような現実に生活の中で直面していると思うのです。しかしもしかしたら、もう信仰を成長させようということを今はすっかり諦めてしまっているのかもしれません。「大きいも、小さいも関係ないよ。所詮何にも変わらない…。」だけど、最初からそういう諦めを持っていたわけではなかったと思います。何とかしようと頑張っていた時のことを思いだしたい。心を初心に戻していきます。

使徒たちは派遣の現場で困窮していました。その問題を乗り越えていくために、今イエスに求めています。「わたしの信仰を増してください。」
 しかし、イエスの答えは予想に反していました。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根をおろせ』と言っても言うことを聞くであろう。」でした。「からし種」とはごくわずか、くらいの意味です。しかも、イエスの答えの中には、使徒たちにはからし種一粒分ですら信仰がないといった意味でこの答えをおっしゃいません。「使徒たちの信仰は確かにからし種一粒ほどくらいしかない小さな信仰である」という意味でおっしゃったのです。ですから、信仰がないとはイエスはおっしゃらなかった。そのくらいの信仰で十分なのです。しかし別な問題がある。それは「僅かな信仰では何もできない」という言うことです。悪魔は日常の出来事を通しながら、現実の厳しさの中で少しずつ私たちをその考えに支配していきます。しかし、イエスはその僅かな信仰に意味を持たせます。ここでは悪魔とイエスの戦いです。私たちの戦いではありません。イエスの戦いです。私たちの戦い以上にイエスの悪魔に対する戦いです。

からし種の信仰。それは確かに小さい信仰です。しかし、先に書いたように小さく始まり小さいまま終わる信仰がある。それはせいぜい「きれいに信仰に生きたね。」といった悪しき優等生の、偽善者的な、ファリサイ人のように自分の信仰を空しく自負する以上に何もない。しかし、もうひとつ全く別な信仰がある。確かに始まりにおいては小さいという意味では何も変わらない。しかし、小さいまま終わらず成長していき、やがて鳥が巣を作るように、他者を育む信仰がある。そのダイナミックな生にイエスは私たちを招き入れました。では、どうすればそういう信仰として私たちの小さな信仰が動き出すのでしょうか。

マタイ18章にこういういう話が出てきます。
 弟子たちが来てイエスに「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねました。そこでイエスは一人の子供を呼び寄せ、弟子たちの真ん中に立たせて言いました「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることができない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」

ここでのカギは「心を入れ替えて」すなわちそれは「心を低くして子供のようになる人」ということです。さらに、イエスの言葉は続きます。「わたしの名のためにこのような一人の子を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

ニコデモ的に言うなら、大人になった私たちは今更子供に戻ることができません。しかし、イエスは「心を入れ替えて」、とか「心を低くする」という言葉で私たちに方向転換をお示しになります。さらに、いまさら私たちは子供に戻れないけれども、子供を受け入れるということはできます。やっと子供から解放された!?自分のために生きよう!?

教会学校に子供たちがわずかですが来はじめています。彼らのために何かしてもいいのではないでしょうか。

新発田ルーテル・キリスト教会牧師
士反 賢一

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