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「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いなさることは何でも神はかなえてくださいますと、わたしは承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者はだれも、死んでも生きる。生きていて信じる者はだれも、決して死ぬことがない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであることをわたしは信じております。」

マタイ福音書11章11節〜27節

復 活

マリアとマルタの兄弟ラザロが病気でした。姉妹たちはイエスのもとへ人を送って「主よ、あなたの愛しておられる者が病気です。」と言わせました。「病気です」としか書いていませんが、それはラザロが病気であるとイエスに報告しているだけのことではなく、この言葉で姉妹たちはイエスに来てもらい、ラザロを癒してもらうことを求めていたのです。しかし、なぜがイエスは姉妹たちの求めにはすぐ答えられず、なおその地に二日滞在しました。やがてイエスは「ラザロを起こしにゆく」と言ってエルサレムに向いだしました。ラビたちはイエスを「神を冒涜している」として捕えて殺そうとしていましたので、それは大変危険のある旅でした。イエスの後に続く弟子たちは大いなる恐れを抱きながらも「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか。」とイエスの後についていくことにしました。弟子たちにとっては、大変危険なことであってももはやイエスの後についていく以外道はなかったのです。弟子たちの命はすでに自らによってではなく、イエスによって生かされもし、殺されもする状況にありました。
 ラザロの町ベタニヤにつきました。ベタニヤはエルサレムから三キロほど離れた小さいく貧しい町でした。イエスがエルサレムに滞在するときは、多分いつでもこのベタニヤの町に宿泊し、そこからエルサレムに行かれたと思います。そして、その宿泊先が姉妹たちの家だったようにも考えられます。イエスが到着するとラザロはすでに死んでいて、墓に葬られもう四日も経っていました。イエスにラザロの病が伝えられた時には彼はもう死んでいたのですね。四日というのは全くの終わりということです。もはやこの世に術はないのです。すっかりと完全に遅すぎてしまっていました。
 
 イエスがベタニヤについたと聞くとマルタはイエスのもとに駆け寄って言いました。

「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」
そうです。やっぱりマルタはイエスに来ていただいて、ラザロを癒してもらいたかったのです。

 
 聖書を読むとイエスは「神の国は近づいた」と言って宣教を開始されましが、そのときにオリエントの世界でよく見受けられる神の子の姿と同じ治癒者として登場してきます。福音書の初めのところでは特に彼の治癒行為と、そして悪霊を追い出す権能に焦点を当てて、彼の神の子としての宣教を語っています。しかし、途中から彼の働きは治癒者を超えていくのです。ヤイロの娘の話を思い出してください。ヤイロはイエスに来ていただいて娘を癒していただきたかったのです。しかし、娘は間に合わず死んだ。ですから、もう一度人を送って来なくても良いことをイエスに知らせました。ヤイロもまた、イエスの治癒能力者としての癒しの力に救いを求めたのです。マルタもマリアもまたヤイロと一緒でした。イエスに癒しを求めていたのです。しかしラザロは死に、しかも四日も経ってしまっていてもはや癒しを求めても意味がなくなってしまったわけです。姉妹たちは悲しんでいました。兄弟が死んで悲しんでいました。それだけでなく、イエスを信じていることについても悲しんでいるようにも受け止められます。兄弟の癒しを求めたのに、イエスはすぐ来てくださらなかった。信じているのにだからこそ求めたのに、彼は来て下さらなかった。それゆえ、時遅く兄弟は死んだのです。信じていることに裏切られる思いです。

「しかし、あなたが神にお願いなさることは何でも神はかなえてくださいますと、わたしは承知しています。」それでも、イエスを慕うことはやめません。いいえ、止められなかったのかもしれない。イエスが祈りを聞いてくれなくても、私たちの求めに答えてくれなくても、それでもなぜかイエスを信じることを選ぶ、そういう思いが私たちの中にもあります。なぜか私たちはイエスを捨てられないのです。求めに答えてくれないことで怒りを覚えながらも…。そういう意味で私たちは泣きながら信仰をもっている。昔聴いた信じることの幸が通用しなくなっています。信じているにも関わらずどんどん力が弱くなっていく…。ふと考えてみるとマタイ福音書の中に「いと小さき者たちの一人」の話が出てきます。そして、その中の一人として私たちは招かれているのでしょうか。私たちにとって信仰というものはいと小さき者たちの一人であったところからでるためのものであったかもしれません。神さまはそういう思いから私たちを連れ出し、新しい旅へと招いているのかもしれません。信仰はいと小さき者たちの一人から出ていくための手段ではなく、いと小さき者たちの一人であったときにキリストに出会い、そして、いと小さき者たちの一人のままキリストと共に立ち上がり、いと小さき者たちの一人としてキリストについていく、ということです。いま私たちはそういう信仰に立ち返らせられているかのようです。でもそういう立ち返った生き方に私たちは戸惑っている。そしてなおかつ昔聴いた幸い物語りを持ち続けようとしている。しかしその幸い物語りは、私たちを謙遜にではなく、私たちをいつの間にか高ぶりに運んだ。いろいろな良いものを手に入れながらも、いつの間にか私たちは高ぶりに陥ってしまったかもしれない。そういう私たちをあたかも敵の罠から解き放つためにキリストが来ているかのようです。
 
 もう一度言います。信仰とはいと小さき者たちの一人から出て行って身分を高くする手段ではなくて、いと小さき者たちの一人であったときキリストと出会い、いと小さき者たちの一人のままでキリストと共に立ち上がり、そして、いと小さき者たちの一人の身分のままでキリストについていく、ということです。その私たちのただ中でキリストが私たちの復活となり、キリストが私たちの命となるのです。そのただ中でキリストの命があふれるのです。

 私たちは昔の信仰の考え方のゆえに泣いている。その考え方によるならあたかも呪われたかのようにしか私たちの姿はないからです。そういう意味で泣くようにして信じている。でも確かに信じている。キリストはその私たちを見捨てない。このラザロのよみがえりのように、彼は確かに私たちのただ中にやってきて、しかも死んで四日後のすっかり遅すぎてしまっていた中に生きている私たちのただ中にやってきて、あたかもあの予備の油を用意している乙女たちのように生きている者たちの中に彼はやってくる。予定の時間は過ぎてしまっているけれど、私たちは予定の時間をすっかり遅れてしまった中で生きていこう。キリストは予定の時刻を遅れてやってきます。それは復活の命を現すためです。復活の命とは遅すぎた後に現れる命です。私は今そう信じることにして歩みだします。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者はだれも、死んでも生きる。生きていて信じる者はだれも、決して死ぬことがない。このことを信じるか。」


新発田ルーテル・キリスト教会牧師
士反 賢一

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