牧師のメッセージ 燈心って何? 燈心Topページへ
そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところに来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところに来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことを行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上られた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのをご覧になった。そのときに、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた
マタイ福音書4章13〜17節


イエスの洗礼

洗礼者ヨハネが現われて、ユダヤの荒れ野で宣教を開始しました。時が来たからです。普段私たちは自分たちの時には生きていますが、神の時、天の時には関心を持ちません。私たちにも時があるように天にもまた時があるのです。その天の時の声を聞き多くの人々がヨハネのもとに集まって来ました。それは「悔い改めよ」という言葉が語りだすように、悔い改めの必要な人々、つまり罪人と呼ばれた人達です。罪人とは二つの意味があるようです。一つは一般的に教会で言われているとおり、自らの罪を認め神の前に立つ人です。しかしもう一つ罪人には特別な意味がありました。それは社会によって罪人とされた人達です。社会が作り出した罪人です。ハンセン病のことはよくわかると思います。彼らがあの病になったのは罪のためでしょうか。そうではなく、社会が彼らを罪人にしたのです。そういう意味で、社会によって罪人にされた人々がいました。姦淫した女、徴税人。あるいはガリラヤに住んでいた人々。ガリラヤに住んでいた人々は、ユダヤの中央の人々から見て異邦人の地に接していたがゆえに、異邦人と接触していた理由において異邦人扱いにされました。彼らもまた、ユダヤ社会によって作られた罪人だったのです。ヨハネのもとに集まってきた人々は、一般的に自らの罪を悔いてやってきたと思われがちですが、本当は社会によって作り出された罪人が集まってきたと思えます。

 
ヨハネの洗礼に集まってきたのは罪人といわれる人だけではありませんでした。ファリサイ派やサドカイ派の人々もいたことを聖書は証言しています。彼らは悔い改めのためではありませんでした。そうではなくむしろ、あたかも謙遜に儀礼的な意味で悔い改めの洗礼を受け、自らの義を正当化するための手段として、ヨハネの洗礼者の列に加わります。しかし、ヨハネは彼らに厳しく迫り、その洗礼を拒絶します。

そのような緊張の中で行われていた洗礼者の列に、イエスもガリラヤから出てこられて加わりました。ヨハネは自らの前に進み出て洗礼を受けようとしておられたイエスを見るとこう言いました。
「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところに来られたのですか。」


 ヨハネにはイエスが洗礼を受けられる意味など全くわかりませんでした。むしろ反対にヨハネこそイエスから洗礼を受け、そして、聖霊と火で洗礼を受けなければならない者、ヨハネこそイエスに従っていくべき存在だったからです。しかし、そのヨハネに向かってイエスはこう言われました。
「今は、止めないでほしい。正しいことを行うのは、我々にふさわしいことです。」

ヨハネにはこの言葉でイエスが洗礼を受ける理由がわかったのでしょうか。多分、イエスに従うということという意味でだけイエスに洗礼を授けたのだと思えます。彼もまた、イエスの行為に戸惑いをもった一人であったのでしょう。

長い間、わたしは人間の側から洗礼を見てきました。その洗礼には感動的なものもありましたし、しかし、不満ながらも教会の勧めに従って受けた人もいました。そういうことを見ながら、あるときどんなに信仰深く、あるいは、学びにおいて真剣に学びつくしたとしても、そうようにして授ける側も受ける側も洗礼のための準備をしたとしても、不完全な洗礼にしかならないのではないか、と思うようになりました。人間の側の洗礼に対する頑張りではないのです。そのときにイエスの洗礼のことを思い出しました。本来受けなくてもよい方がなぜ洗礼を受けるのか?あの「今は止めないでほしい。正しいことを行うのは我々にふさわしいことです。」とは一体何を言っておられるのか?イエスが「正しいことをするのは我々にふさわしいことです」と言って、ヨハネを自らの御手の中に招き入れ従わせたものは何なのか?「正しい」という言葉は旧約的には「義」ということです。そう考えているときに、「義」に二種類あるということを考えました。一つは自らを義とする義。もう一つはそれを与えて人を義とする義。これはパウロがややこしい文章で、いつも言っていたことです。そして、ルターもまたこのことに出会って福音に対する考えを転換させていったわけです。ですから、あの時、イエスがヨハネに言った「正しいことを行うのは、我々にふさわしいことです。」は、「人を義とすることをするのは我々にふさわしいことです」、ということなのでしょか。そう考えると、イエスの自らも洗礼を受けようとする罪人の列に並び、順番を待ち、ヨハネの前で頭を下げ洗礼を受けるという行為には、人を義とするための行為であったと思えるわけです。そうやってイエスは私たちが受けた欠陥だらけの洗礼の中に飛び込んで来て、私たちを義にしていくのです。

私たちがどういう思いで洗礼を受けようとも、敬虔に、真剣に、誠実に…。しかし、そういう人間の信心深く思われる行為としての洗礼であったとしても、その洗礼の中にイエス自らが飛び込んでこなければ、その洗礼を通して恵みは私たちの所に届かないと思ったのです。そして、聖書は実に罪人が受ける洗礼者の列にイエスが加わり、罪人と同じように、あるいは一人の罪人として洗礼を受けたことを証言していたわけです。このことをとおして、私たちの受けた洗礼が儀礼的なものから神の恵みの手段として生き返ってくるのです。そうやって考えると、洗礼についていつも私たちは人間のために与えられた恵みの手段として考えてしまっているのですが、そうではなく、実にイエスご自身のために神さまが設定されたもの、イエスご自身が私たちのただ中にやってくるために神さまが設定してくださったものであったわけです。イエスご自身のために神さまによって用意されていたものだったんですね。なぜ洗礼を受けるのか。実にそれはその洗礼を通してイエスご自身が私たちのただ中にやってこられていたわけです。

私たちは自らの信仰を深める手段として洗礼を考えている。しかし、それ以上にイエスご自身が私たちの中に入って来た洗礼。そのことを思うとき、洗礼を受けたことで馬鹿げた傲慢になってしまった信仰が清められていく。だらだらと周りに流されていくような信仰も清められていく。「よし、いっちょうがんばるか」とまではいかなくても、少しずつ自らを変えていこうとしていこうとする。そういう内側から湧いてくる新たな思いを感じだします。

キリスト、我らと共にいたもう!その事実が私たちを新たな創造に導いています。

パウロの言葉が想い起されます。「大切なことは、新たに創造されることです。」

神に感謝!



新発田ルーテル・キリスト教会牧師
士反 賢一
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