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一つの戒めと一つの約束

あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることはできない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

ヨハネ福音書14章15節〜17節

 聖霊降臨後の季節になりました。今年はわたしにとって、聖霊降臨ということが大きなテーマとなりました。聖霊については色々な情報や考えが教会内に飛び交っています。聖霊を受けているとかいないとか、聖霊のバプテスマを受けたかいないとか…。ともかく、聖霊は教会の中では、教会を豊かにするという面だけではなく、時に教会を分裂させる要因になっています。厳密に言うと、聖霊がではなく、その聖霊についてどう理解するかという人間側の問題がそこにあるといえます。今回、聖霊についてわたしなり一つの考察を書いてみました。ただし、わたしは聖霊論を皆さんに示すという大げさなことではなくて、わたしの中に起きたある一つの聖霊についての理解を書こうと考えています。
去年の復活後の季節に聖書を読んでいて、おりしも教会の伝統もあって、ヨハネの福音書が聖書の日課として使われていました。その時にヨハネ福音書を改めて読んでいたのですが、ヨハネ福音書で聖霊について語るときに、ただ聖霊について語っているのではなく、一つの戒めを並べて書かれていたことに気づきました。それはそれでわたしにとっては大きな収穫でした。しかし、その時にはそれ以上に論を深めるということはありませんでした。そういうこともあって、今年は聖霊降臨に関心を持ちながら、アドベントから始まる新しい一年を迎えてきました。教会の主日礼拝での日課の流れを大切にしながら聖霊降臨に向けて考えながら歩んでいました。そして、聖霊降臨を迎える準備としての復活後の聖書の箇所を読み進んでいたのです。
その時に、ある一つのことに気づきました。ヨハネを読むのですが、ただ読むのではなく、また、学者肌になって学問的に読むのでもなく、流れにそって読む(脈絡的に読む)ということをしていくと、ヨハネ福音書は聖霊の話と一つの戒めの話とを結び合わせて書いていることに気づいたのです。その一つの戒めとは
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ一三:三四)
です。一四章三一説にはじまり一六章の最後までは「イエスの最後の説教」と呼ばれているところですが、その中に色々なことが語られていて、どうしてもその一つ一つに目が行ってしまって全体的な流れが掴みにくいわけですが、しかし、その中でイエスは何度も一つの戒めを守ることを繰り返して語っています。更には、それと並べて聖霊を与える約束、聖霊の働き、という聖霊について語っていたのでした。つまり、イエスはただ聖霊について語っていたのではなく、一つの戒めとの関係の中で聖霊について語っていたわけです。ですから、礼拝での説教の中で「一つの戒めと一つの約束」という題でお話しました。ここで言う、一つの戒めとは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」です。そして、一つの約束とは聖霊を与える約束のことです。
 聖霊というと、そのことについて調べていくとどうしても聖霊について書かれている聖書の箇所を探し、その働きを中心にして理解されがちです。わたしもそういう傾向を持って聖書を読んでいました。しかし、そこに落とし穴があったんですね。そうやって聖霊について聖書を調べてしまうと、一つの戒めがぜんぜん見えてきません。しかしふと視界が開かれてヨハネ福音書を脈絡的に読むときに、聖霊についてヨハネは、一つの律法との関係の中で語ろうとしていたわけです。
 一つの戒めと一つの約束。しかし、何一つ聖霊について新しいことは発見してはいません。聖霊のなぞは数え切れないくらい残ったままです。しかし、一つの戒めの中に聖霊が働くという視点でとらえるときに、やはり聖霊のなぞを持ったままですが、しかし聖霊と共にある歩みが見えてきます。ただ聖霊を追い求めるなら、聖霊の神秘を探しに旅に出ることになります。そうやって、不思議な経験、神秘主義的な歩みの中に加わっていくのでしょうか。果たして弟子たちは神秘的な経験を積んだ修行僧だったでしょうか。彼らの中の四人は漁師でした。徴税人もいました。確かに熱心党と言う国粋主義者的な人もいました。そういう意味では弟子たちには神秘に秀でた人は一人もいません。彼らはわたしたちと同じ普通の人間であり、諸事情をもち、時にマタイのようにユダヤ人でありながら異教の民の仕事をなし、イスカリオテのユダのように利益に対して目が肥えている。またタダイのように時に純粋な故に一つの思想に走り、更にある者は、まったくそういうこともなく平々凡々に生きている、といった人たちでした。しかし、その弟子たちにイエスは聖霊を与えたのです。だが、決してただ与えてわけではありません。自らの命によってつくりだした一つの戒めと共に、です。
聖霊を求めること、神秘的になること、神的な存在になること…。そういうことにわたしたちは多少なりとも憧れ、興味があるだろうと思います。時にそうなりたく、しかし現実に程遠いところで生きている、そういうわたしたち。また、わたしたちはこういう人たちも見ています。聖霊を受けたが故に、いつの間にか人を見下し、教会を見下し、自らの正しさのために霊を受けたことを使う人たち…。本当は、聖霊を受けること、それは確かに証人となることであり、それゆえに宣教にとって欠かせないことですが、しかし、自らを決して傲慢に陥らせず、一つの戒めに身を投じつつ証人となっていく。一つの戒めがその人を支配し、その一つの戒めにあってその人は歩み出すこと。そして、その人の歩みに霊が注がれ、導かれ、語るべきことが語られ、時に奇跡が起こる。だから、わたしたちが聖霊を求めるとするなら、その人は本当に真剣に一つの戒めに目を向けるべきです。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
実にこの戒めはただ人間として倫理を守るということではなくて、聖霊のダイナミックな働きの中に身を投じていくことを意味します。その戒めが担われる時、人の中に祈りが始まります。それは多分今までと違った祈りです。祈らなければならない祈りではなく、聖霊が祈る祈りの中に運ばれていくでありましょう。

一つの戒めの中に一つの約束が実現し聖霊が働く。だとするなら、わたしたちは今まで通り一人の人間のままで、今までの生活の中で豊かに聖霊と共にある歩みをすることができます。実にイエスがその宣教の始まりに
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
と語った、あの神の国が実にわたしたちの只中に始まり、その目的に向かって歩み出している。この新発田の地にも、目ではそのように思えなくても、わたしたちはもう既に神の国の中にいる。わたしたちは、もはや神の国を求めて旅をするのではなく、神の国の方からわたしたちのところにやってきて、わたしたちを癒し、慰め、わたしたちを新しく創造していく、その神の国に身を委ねていく。そのことを通して起こる豊かな神の業に、心の深いところで希望を持ちつつ、また、ある意味で何も特別ではない生活を引き受けつつ生きていこう、と思うのです。
神に栄光がありますように!


新発田ルーテル・キリスト教会牧師
士反 賢一


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