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体のよみがえり

こういうことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよくみなさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らは喜びのあまりまだ信じきれず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

ルカ福音書24章36節〜43節

 二十二日の礼拝での聖書の箇所を掲載しました。
この場面は、あの復活の日、まず女達に天使が復活の知らせを伝え、女達が弟子たちに伝え、そして、エマオに出かけた二人の弟子たちに復活のイエスが現れた後での記事です。まず、エマオでのできごとを振り返ります。
エマオでのできごとは、二人の弟子がエルサレムで起こったイエスの出来事を話し合いながら旅をしていました。そこに、イエスが現れ、彼らの話の中に入られたのです。しかし、彼らにはその方がイエスだとは思いませんでした。イエスは彼らの話を聞き入られていました。また、パンを裂いたときに、その時に二人の弟子は目が開かれ、それがイエスだと分かったのです。
イエスはいます。私たちが聖書を開き説教をしている只中に。イエスはいます。私たちがパンを裂き聖餐に与っているときに。いいえ、今だけではなく、今までずっとそうでした。教会の礼拝で説教されたとき、聖餐式でパンを配っていたとき。そこにイエスはいました。それが未熟な説教であっても、ただ儀式的に行われただけの聖餐であっても、「信仰、信仰」といいながら、実は自分のことしか求めていなかったときであっても、そこでイエスについて説教され、主の名によって聖餐式が行われていたとき、彼はいつもそこにいました。そして、今も私たちの只中におられます。これからもおられます。説教され聖餐式が行なわれ続けるかぎり、彼はそこにおられます。
では、そのイエスは一体どういうお方なのか。

エルサレムに帰って見ると、仲間たちの間で主は復活してシモンに現れたと話されていました。あの二人も、道で起こったこととパンを裂いたときのことを伝えました。まさに、その話の只中に復活のイエスが現れたのです。
「あなたがたに平和があるように」
イエスはまず彼らを祝福されます。彼らはそれが亡霊だと思え、恐れています。そうです。彼らの目には亡霊としか映らなかったのです。あの時もそうでした。嵐の湖でイエスが水の上を歩いてこられたときも。あの時も、復活の主がそこにいました。でも、彼らには亡霊にしか思えなかった。そこでイエスは、弟子達に向かってこう言いました。
「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよくみなさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
さらにこう言いました。
「ここに何か食べ物があるか」
そして、出された焼かれた魚を取ると、それを食されました。

 この聖書の箇所が大事にしているのは確かに復活です。しかし、ただの復活ではなく、「体のよみがえり」としての復活です。
 私たちの教会の信仰告白「使徒信条」は皆さんよくご存知です。その中でもやはり私たちは「体のよみがえりを信ず」と告白しています。ここで、注意したいことは、「よみがえり」ではなくて「体のよみがえり」ということです。使徒信条はよみがえりではなく、あえて「体」という言葉をくっつけて、「体のよみがえり」としているように思えます。それは今日の聖書の箇所との兼ね合いで考えるなら「亡霊」ではないからです。また、霊魂だけの復活ではないからです。事実、グノーシスという考え方の影響を教会は多大に受け、霊魂のよみがえりという合理的な信じ方がよくなされました。そういうよみがえりは信じ易い。マルタもマリアもラザロのよみがえりのとき、イエスが復活を信じるかと尋ねると「終わりの日の復活のときに復活することは存じております」と答えました。合理的です。あまりにも人間的に受け入れ易い形です。しかし、それは人間の中に神さまを支配してしまう信仰です。神さまが私たちを支配しません。そうやって私たちは信仰を自分達に都合よく小さなものとしています。「主よ、主よ」と言いながら、自分にとって便利な神さまを求めます。しかし、神さまこそが私たちを支配しています。神さまこそが私たちの中で大きな方として業を行われます。だから、ただのよみがえりではなく、「体のよみがえり」です。
「体のよみがえり」はただのよみがえりではありません。もし、体が伴わないよみがえりであるなら、私たちは死の支配にいます。しかし、体を伴ったよみがえりなら、死はこのよみがえりに支配されます。
イエスが弟子たちにその体をお見せになったとき、その手と足を示されました。そこには釘に刺された後のある手と足があった。だから、またそれがイエスだと弟子たちには分かった。確かに釘で刺された痕があった。しかし、その痕を残しつつ、しかし生きている体がそこにあった。彼は確かに死んだ。しかし彼は今生きています。彼はこの生きた体によって死が勝利に飲まれたことをお示しになります。
その生きたその体を持ってよみがえったイエスが我らと主にいます。それがエマオの記事によって私たちに示された。ですから、そのよみがえったイエスが、私たちの説教の只中に、聖餐式の只中に今おられます。そして、これからも説教と聖餐式が行われ続けるかぎり、その只中にいつでも我らと共にいます。それが、この聖書の箇所から聞いている確かな福音です。

「体のよみがえり」は合理的に信じることのできないできごとです。弟子たちが最初に聞いたときにたわごとにしか聞こえなかったように、私たちにとってもそれは然りです。しかし、その復活のキリストが今私たちと向かい合っています。私たちは変に信じようとするのではなく、この彼と向かい合っていくのです。いつでも、どこでも、この彼にあって私たちは歩くのです。私たちはやっと神さまを持ちました。
私たちはやっと復活の主にお会いできました。新発田教会は復活のキリストと出会いました。もはや私たちはキリストを求めての旅ではなく、キリストと共に旅をします。体のよみがえりのキリストと共に旅をします。キリストを求める旅をやめて、キリストと共にある旅をします。ルターが福音と出会う前に「どうしたら私は恵みに出会うのか」と問いました。しかし、今私たちは、新発田教会は「どうしたら私は恵みに出会うのか」ではなく、「この恵みの中で、私たちは何をするのか」と問い出します。その問いの答えを求め、礼拝をなし、祈りをなし、聖書の学びを続けて行きたいのです。
パウロが教会を「キリストの体」と言いました。私たち新発田教会も、キリストの体としての教会の歩みを開始いたしましょう。


新発田ルーテル・キリスト教会牧師
士反 賢一


                                 

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