牧師のメッセージ                燈心って何? 燈心TOPページへ

願いが叶う

イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚れた霊にとりつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。
女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパンくずはいただきます。」そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた

マルコ福音書7章24節〜30節


 九月十日に説教した聖書の箇所です。今年は、私は説教するにあたって、マルコ福音書のはじめからの流れを大切にしながら説教しよう、と心がけています。またそれは同時に、日曜日ごとの日課のつながりも大切にしながら、毎回の説教を考えるようにしています。なぜなら、私たちはその人生を聖書に導かれているという信仰と、その導きが、日曜の礼拝での説教を通してなされているという信仰で立ってみようと思っているからです。
そういうわけで、マルコ福音書の中でこの聖書の箇所を見ていると、イエスはガリラヤ近郊で多くの業、すなわち、癒しと悪霊追放を行っておりました。しかし、それらはユダヤの中でのできごとでした。それに対して今回はユダヤを出て、異邦の地シリアでのできごとです。イエスがなぜ、そこに行かれたのかについて、聖書は理由を述べていません。しかし、誰にも知られたくなかった、という言葉から公の意味ではなかったようです。しかし、イエスの評判はここシリアにおいても聞こえていたらしく、人々がイエスがシリアの町ティルスに来ていることが噂されました。その噂を聞き一人の女がイエスのもとにやって来て、ひれ伏し懇願しました。娘が汚れた霊に取り付かれ、それゆえ苦しい生活を強いられていたようです。
ところで、この物語の前半では聖書は「汚れた霊」と言っていますが、物語の後半ではイエスが「悪霊」と言い換えていますし、それを受けてかのように聖書も悪霊と言い換えて行きます。深い意味があるかもしれませんが、ここでは基本的に「汚れた霊」も「悪霊」も同じものというところで受け止めて行きたいと思います。
さて、聖書は女が誰であるか述べます。「ギリシア人でシリア・フェニキアの生まれ」…。簡単に読んでしまえばそれだけなのですが、ギリシア人、シリア・フェニキアの生まれという説明がされているわけがあります。つまり、この女は異邦の女でユダヤ人ではないわけです。それも、生まれがシリア・フェニキアとあるわけですから、何らかの理由でユダヤから移り住んだ寄留者ではなく、生粋の異邦人であったわけです。ユダヤの外の女、それも生粋のユダヤの外の女、言い換えれば、信仰的に信仰の外の女、神さまの祝福の外にいる汚れた女ということです。マルコはそのことに着目しています。つまり、神さまの祝福の外の女、汚れた女に恵みの業は起こるのか、と。
女の願い出にイエスは言葉を返します。
「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。」
注目したいのは「まず」ということば。一般的「まず」というと「次」があるわけです。つまり、まずビールを次に焼き鳥を、という具合です。しかし、次がない「まず」があります。一つは創世記の最初のことば「はじめに」です。これははじめにというわけですから、次がある、そして終わりがある、という意味合いに聞こえてきます。しかし、これは解釈上の問題とされればそれまでなのですが、「そもそも」というくらいの意味合いを持っています。つまり創世記の始まりの言葉は、そもそも神が天地を創造したのだ、ということになります。そうすると、自然発生的にとか偶然によってという考えを転換させて、神が天地を創造したという信仰への方向転換を語ろうとしていることになります。次に新約聖書の中では皆さんもよく知っているイエスのことばがあります。
「まず、神の国と神の義を求めなさい」の「まず」。こちらの方が言葉も同じですから考えやすいと思います。この「まず」もやはり、まず神の国を求めて、次に…、ということではありません。そういう優先順位を言っているのはなく、意味合い的には先に創世記の「はじめに」という言葉で説明しましたが、優先順位、時間の最初ということではなく、基本的には「そもそも」と同じ、つまり、方向転換して、今までの生き方を捨てて、「そもそも、神の国とその義を求める生活に入れ」と言うことです。
そうすると、「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。」は、子供たちにパンを与える、その一つのためにイエスは来た、ということになります。しかし、それで終わらない神さまの恵みがあるのです。
女はそのイエスの言葉を聞き、こう答えました。
「ごもっともです、ご主人様。しかし、食卓の下に起きたパンを子犬が食べるように、私にも食べさせてください」。意訳的な言い方をしてしまいましたが、そういう言葉を返したと思われます。思い出してください。五千人の給食のとき、パンくずが十二篭一杯だった。祝福というのは溢れるからこそ祝福であり、溢れないとするならそれは配給です。聖書は制度について語っている書物ではなく、溢れる祝福に、こぼれ落ちてしまう祝福の証言集です。溢れないものは神さまの祝福とは呼ばない。その溢れる祝福の中にイエスは私たちを招こうとしておられる。
彼は目的は変えませんでした。やはりこれからもその目的に向かって、子供たちにパンを与える旅に出かけて行きます。しかし、彼の働きが神さまの祝福の働きならば、いやそれ以上に神さまの祝福そのものであるならば、その歩みの途中で溢れでるものまで独占することはありません。こぼれ落ちたものまで自分のものにすることもありません。もしそうするなら、それは貪欲です。こぼれ落ちて、神さまの祝福は外に溢れて行きます。
ユダヤから見て神さまの祝福の外にいると言われている女がいました。それも生粋の異邦人の女でした。ユダヤから見て汚れの中にいると言われている女であり、彼女自身が汚れそのものと言われておりました。しかし、その祝福の外の只中に神の祝福が現れました。イエスにあってそれが起こりました。異邦人の女の願いが叶えられて、知らないうちにその娘は布団の中で落ち着いて寝ていました。そのことに私たちは注目すべきです。
汚れていると言われていた只中に、神さまの祝福をもたらすイエスが来ました。汚れていると言われていた女の願いを聞き、彼は叶えていきました。それが今日の聖書を通して、礼拝の中で語られていた福音です。彼は汚れの中にも祝福をもたらします。その人の心と向かい合います。
彼の言葉に聞きましょう。そして、高ぶりを捨てて立ち返って彼の言葉に歩み出しましょう。人を汚すのはギリシア人だとかそうではないとか、ユダヤ人だとか異邦人だと言う外からのものではありません。むしろ問題なのは、信仰を持っているから正しい、信仰的に生きているから正しいという類の高ぶりです。それは自己義認の罪であり、人を汚します。
高ぶりを捨てて歩き出しましょう。自己義認を捨てて歩き出しましょう。神さまの恵みがあります。神さまの祝福があります。そして、本来ならば叶えられないはずの心の願い、罪の赦しと共にイエスにあって叶えられていきます。
神に感謝!

新発田ルーテル・キリスト教会牧師
士反 賢一


                                 

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