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聖霊を与える約束

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、なたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、私もその人につながっているならば、その人は豊かな実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
ヨハネ福音書一五章一~五節


 おりしもペンテコステの季節です。今年のペンテコステは、いつものように日曜ごとに与えられる日課に即しながら、どういう導きがあるのかということを考えていました。ルーテル教会は一般的なプロテスタント教会と違って、教会暦とそれに即した日課を中心に礼拝を進めています。その際、日課は牧師が教会の様子を見て決めるのではなく、決まった日課に即して教会に語って行きます。ですから、その日課に即して礼拝を進めると言うことの中には、牧師が教会を導くではなく、その日課をとおして神さまが私たちを導くと言う信頼を前提としています。少なくとも、私はそう受け止めて行っています。
そういう脈絡の中に自らを置いて、この季節聖書を読んできました。その中でヨハネ福音書が大変印象的でした。冒頭に掲載したぶどうの木のたとえは、復活の季節に、そして、ペンテコステに向かい出すあたりから日課として登場してきます。以前から、なぜこの箇所が日課として使われるのかに対して、疑問を私は持っていました。そこで、今年は、ヨハネ福音書の脈絡に中心をおいて考えることにしました。いつもそうですが、福音書を読む際に、一つのまとまったお話が出てきます。その箇所だけで十分内容を持ったお話です。そういう意味では、ぶどうの木のたとえ話も、教会の中ではその話だけで十分知られていて、しかしその結果、ヨハネ福音書の脈絡の中で読まれなくなってしまう問題を持っていたようです。福音書記者は、多分そういう意図を持っていたわけではありませんが、しかし読む方は記者の意図を受け継ぐことよりも、自分で感じたことの方を大切にしてきたと思います。
以前からの疑問、なぜこの季節にぶどうの木のたとえ話を説教するのかと言うことを今年は少し問題にしながら、それで、改めてヨハネ福音書の流れを大切にしながら読んでいくと、このぶどうの木のたとえ話が、イエスの最後の説教と呼ばれる中にあることに注目しました。あの晩、イエスは弟子達を招き最後の晩餐を行いました。その中でイスカリオテのユダがイエスの居場所を密告するためにそこ場から立ち去ります。このユダの行為が、イエスが十字架に付けられる事を決定した瞬間でした。そのことを見極めてから、イエスは残りの十一人の弟子たちに説教をし出したのです。
この説教は、これから起こる一切合財が語られています。教えるということよりも預言されているという言葉がふさわしいと思います。そして、イエスはその中で何回かこの言葉を語りました。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたは互いに愛し合いなさい」(一三章三四節)
そして、一四章一五~一七節で
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別な弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」
この箇所を読むとなんとなく、掟を守ることと、聖霊を与えることとが別ことのように読まれてしまうのですが、そうではなく、掟が守られているその中に聖霊が与えられる、という内容を持っていることことに気づきます。実に聖霊が与えられる約束が、深く掟を守ることと結び付けられてイエスによって語られていたわけです。
神さまは実に聖霊を私たちの中に送りたかった。それは、私たちが求めているからではなく、神さまの方でそのお考えがあった。考えて見ればアブラハムにおいても、彼が神さまを求めていたからではなく、神ご自身こそアブラハムを求め、彼に約束を与えてくださった。ペトロにしても、彼がイエスを求めていたからではなく、イエスこそペトロを求め、彼を人間をとる漁師にしたかった。私たちにおいても、私たちから神さまが求められたからではなく、神さまの方こそ私たちを求め、探し出し、信仰を与えてくださった。私たちは誰一人、赤ん坊のときに神さまを欲していたでしょうか。
そして、聖霊もまた、私たちが欲していたからではなく、神さまの方こそ与えたわけです。そして、その際に、ただ聖霊を与えればよいのでなく、「互いに愛し合う」と言う掟、その掟のうちに歩く交わりが大切だったわけです。私たちも豚に真珠は与えないでしょう。もし真珠が大切なものならば、その価値が分かる人、そういう意味で、それを得ることに苦労してきた人、高ぶりを捨ててへりくだって生きることを引き受けた人、人間として苦労することを引き受けた人、そういう人にこそ真珠は与えられるべきだと思うわけです。
今回掲載した聖書の箇所、ぶどうのたとえを読みながら、イエスは何度も「わたしにつながっていなさい」とおっしゃいました。そしてそれを流れに沿って読んでいくと「わたしにつながる」とは「わたしの言葉がいつもあなたがたの内にある」(一五章七節)更には、「わたしの掟を守る」(一〇節)となり、一二節で再び繰り返されて「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」、そして、一七節「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」と言うふうに話が進められていきます。実にぶどうの木のたとえ話は、『互いに愛し合いなさい』を語るためのものであり、そして、掟を保つ交わりの中に聖霊が送られます。そしてそれは、私たちが欲しているからではなく、神さまが与えることを決心されたのです。注意してください。神さまが与えたいのです。教会が聖霊を求めなくても、しかし、その教会がイエスの掟にとどまり、道を探して、神さまにもとめていること。たとえそれが小さな力しかない交わりであっても、愛し合うことを引き受け、人間として苦労しながら生きることを引き受け、高ぶりを捨てて謙遜にあることが引き受けられたところで、高ぶりを捨て、立ち返った悔い改めのあるところで、聖霊は真理の霊となり、永遠に私たちと共に住み、すべてを教え、すべてを導き、私たちの立ち返りの証と共に、豊かな証をなさいます。そして、罪の赦しを差し出し、悔いる者に霊による新たな生まれを開始なさいます。

今回のペンテコステに向けての季節の中で、掟との関係で聖霊を考えたことは、私にとって導きでした。そして、そのことを考えたとき、ただ聖霊だけが求められている、あるいは霊の働きだけが強調されることが傲慢だと思うようになりました。イエスの掟が守られることが大切です。その苦労が引き受けられている交わりにあってこそ、霊が与えられ、豊かに導くのだ、と思いました。
「霊よ来てください。イエスの掟に生きている民の中に。互いに愛し合うことが引き受けられ、高ぶらずに苦労しながら歩んでいる民の中に。神よ、その約束を豊かに実現してください。」
そういう祈りが、なぜか私の中で開始されだしました。神に感謝!


新発田ルーテル・キリスト教会牧師
士反 賢一



                                 

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