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十字架への招き

そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスの所に来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます。」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められている人に許されているのだ。」


 受難節を迎えました。そして、後二週間後には受難週になります。わたしにとって、今年は大変意味深い思いでこの季節を過ごしております。理由は、今までの生涯の中で一番イエスの苦難の中に将来に対しての希望を見出したい思いに駆られているからです。人間の力によってではなく、人間にとって最も愚かなことと思えるこの出来事の中に希望を、教会の将来を見出したいと思っているからです
 あの日、イエスがエルサレムに自らの死を覚悟して向かい始めた日、イエスは弟子たちに向かって三度目となる自らの死と復活の公言を行われました。その時、弟子たちは大いなる不安と恐れを抱きました。それは、自分たちの師を失う不安、つまり指導者を失い活路の見出せなくなることへの不安。それと、師の死に弟子たちも巻き込まれていくこと、つまり自分たちも捕まえられ殺されるのではないかということへの強い恐れ。教会では意図も簡単にイエスの死と復活について語っていますが、もし、その言葉を語っている人たちがあの時の弟子たちと同じ立場だったら、あるいはその立場になることを引き受けた上でイエスの死と復活を語るとするなら、多分、多くの人たちは何も語らず、隠れた形でクリスチャンになるのが関の山なのではないでしょうか…。でも、その中で、唯一望みがあるとするなら、イエスが語られていたイエスが栄光の座につくときだけをかろうじて逃れ場所にして、一杯一杯に強がりを言っている以上に何もなかったと思うのです。
そういう中で、ヤコブとヨハネの母がイエスにお願いをする。それも聖書には「ひれ伏し」とありますから、ただの願い事ではなくて、あたかも祈りとか礼拝的な意味で自らの願いをイエスの前に置いていったわけです。彼女の願いは、ある意味で今の教会の中で見受けられる祈りでもあります。人間的に精一杯の祈り。しかし、本当は、十字架を引き受けない人たちの祈りでもあるように思えます。ただ、神さまの栄光だけを受け止め強がりを言って教会を作ろうとしている人の祈り、信仰を栄光との関係で勢い付けと勘違いして、やれ「礼拝だ、祈祷会だ、宣教だ」と言っている人たちの祈り。つまり、信仰の契機付けには都合のいいところだけ取りだして、自分が損するところを人に押し付け、偽善ぶっている人たちの祈りのようなものです。そういう二人の息子の母の、イエスの栄光に結び付けての願いに対して、イエスはこう答えられました。
「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」
まず、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」です。栄光と結び付けている願いはイエスの前では願いではないようです。ですから、イエスは次にこうおっしゃった。「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」、と…。イエスは母に対して「杯」という言葉を使って間接的な言い方で、自らの十字架を差し出します。これが私たちの信仰の根拠です。自らの信仰深さでもない、情熱でもない、熱心さでもない、そうではなくて、イエスが十字架に架かり罪を赦すということ、そのことが私たちに信仰をもたらし、私たちを癒し、力づけ、自分の足で立つことを引き受けさせていく。人間的な弱さの故に十字架抜きですぐに栄光と結びつけ信仰を高揚させようとしているかの母に対して、イエスは自らの十字架を差し出しました。しかし、母には十字架が抜きとされていた。弟子たちも同じでした。と言うより、彼らは言葉上では十字架は知っていますがまだイエスの十字架と出会っていません。ですから、本当の意味でなす術を失っていたのです。そして、まったく意味を持っていない言葉「できます」と答えました。十字架と願いを結びつけると言うのは理屈の上では簡単ですが、本当に私たちはそうしているのでしょうか。というより、罪の赦しに出会ったのでしょうか。もしそれがなければ、知識ばっかりの頭でっかちと言う信仰の罠にはめられているかもしれません。
イエスの言葉は続きます。
「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。」
イエスは今度は「飲むことができる」とはおっしゃいませんでした。今度は「…なる。」とおっしゃいました。この言葉は注意しなければならないことです。「できる」と「なる」とは違います。あの杯は弟子たちの「できる」によってではなく、イエスによって弟子たちが飲むことになるの「なる」です。こうやって、実はイエスは母を含め弟子たちをすべて自らの十字架の中へ招待していたのでした。
この季節、多くの教会ではイエスと同じように苦しみを受けることを引き受けようとする傾向がありように思えます。それは確かに敬虔な姿勢に思えます。しかし、そのことに熱心になるばかりに、一番大切なこと、あのイエスの十字架が忘れ去られていくのではないでしょうか。私たちが信仰を持ったのは、それぞれにきっと理由があると思うのですが、その背景にイエスが十字架を担ったことがあったわけです。その彼の業によって私たちは恵みを受けたのです。礼拝式分の中で「憐れみ深い神が、罪を悔い み子を信じる者に、赦しと慰めを与えてくださるように。」と司式者が懺悔の場で言いますが、悔い改めのあるところで罪の赦しが起こり、そしてその中で神さまの栄光の業が開始されていきます。もうすっかり分かりきった言葉だと思いますが、今一度、私たちは罪の赦しからはじめて生きたいと思うのです。マタイの聖書の箇所を通して、イエスは私たちに自らの十字架に招待しております。新しい意味で十字架に招待しているのです。もう私たちは罪の赦しが終わってしまったなどと傲慢な信仰にならず、今一度、イエスの招待を受け入れ、彼の十字架の前に立ちましょう。もしかして、私たちは勢いづいて信じていただけかもしれない。ただ、自分が認められたくてだけの理由で信じていたかもしれない。でも、本当の信仰はそういう過程を含めて十字架をとおしての罪の赦しから開始されます。そこに神の栄光が現れる。その中で、礼拝をつくり、祈りが生まれ、そして、宣教が開始されていく。十字架抜きで、あるいは十字架を知識だけに終わらせて勢いづいた傲慢な栄光の神学を捨てて、ルターと同じく十字架と出会い、罪の赦しを受け、そこから新しく始まる人生に、進んで行きたいと思うのです。
この季節を決して無駄にせず、聖書を通して神さまが確かに招いておられる十字架の席に共に着いてたいのです。そして、その人たちと共に、新しい思いで教会を新たに作り上げて行きたいのです。
神に感謝!

新発田ルーテル・キリスト教会牧師
士反 賢一



                                 

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