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導かれる

彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
学者たちはその星を見て喜んだ。

マタイ福音書二章九・十節


 教会の暦はアドベントから始まります。わたし達はそのクリスマスの中で新しい一年を迎えます。日本の伝統では、新年はともかく一年の始まりですので、めでたいのだと思います。しかし、教会はクリスマスの中で新年を迎えるわけですから、クリスマスの出来事の中にこの一年の歩みを託すのが筋であろうと思います。私自身は、今年強くそういう思いを持ちながら歩んでいます。
 去年のクリスマスを迎えるにあたって、わたしには何の準備もありませんでした。そういう中でクリスマスを迎えていったのですが、それがかえってよかったようです。なぜなら作為的によくしようということになりませんでした。その代わり、自分の中では聖書の中に導きを探しにいったのです。クリスマスの準備期間であるアドベントで読まれる聖書の箇所が、このクリスマスを迎える全てでした。その中でなんでもないことでしたが、聖書が悔い改めを求めていたことに強い印象を受けました。そして、悔い改めということを新たな思いで考えたときに、悔い改めのある信仰と悔い改めのない信仰があるということに気づきました。
 日本ではクリスマスはとてもよく知られています。でもそれは、悔い改めのないところで知られているクリスマスです。または、悔い改めのないところで祝われているクリスマスです。そして、それに対峙するかのように教会がしているクリスマスは、あるいはしていくべきクリスマスは、悔い改めのあるところでのクリスマスであり、お祝いです。その件に関しては、去年は漠然とでしたが、今年はその違いを明確にしながらよりしっかりとした形にしてクリスマスを告げて行こうと考えています。

 さて、わたし達の悔い改めのあるところで行われたクリスマスは一体どういうものだったのでしょうか。まずクリスマスでは、「はじめにことばがあった」という聖書の言葉を聞きました。ヨハネが伝える独特のクリスマス物語です。ヨハネが語るクリスマスはことばの誕生としてのクリスマスです。そして、ヨハネの中には「見ないで信じるものは幸いである」ということばありますから、見ていることではなくて「聞いたこと」に生きるという示唆をわたしたちに与えてくれます。またそのときの説教の中で「」ということをテーマにもしました。その際、「」を太陽のような光ではなく星のような光として聖書が伝えていることをお話しました。ユダヤの伝えで、「昔船員は夜航海をした」と言うことをお話しました。初期の航海は沿岸を見ながらのものでした。ですから昼間の航海です。しかし、外洋に船出しだしたときから、もはや岸は見えませんから星に方位を見出したのです。ある意味で、今わたしたちがおかれている状況は太陽の光の中で岸を見ながら船を進めるような具合ではまったくだめな状況です。そういうことをあきらめてしまって、岸は見えなくなってしまうが、星に方位を見出しつつあの暗闇の大海原に漕ぎ出して行き、新たな世界を見出せるかの賭けを行わなければならないと思うのです。そういう思いを共有できる方に、ぜひ星の導きを信じて暗闇の中に漕ぎ出していくような歩みをお願いしたいのです。そして、実際にそのようにして下さる信徒がいることに力付けられます。わたし達が本当に悔い改めから出発しているなら、神様はわたし達を見捨てず、星によって導くでしょう。
 第二週目の聖書の箇所はカナの婚礼のお話でした。ここでの本来的な中心は、説教で言ったように水がぶどう酒にかわったことで語られていることです。ぶどう酒がなくなったときに、イエスは水がめに水を汲んでいくようにと言いました。そこには清めのための水がめがあり、その水がめに水を汲んで人が運んだのです。そのときに水がぶどう酒にかわっていました。ヨハネが伝えたかったことは、清めの業がユダヤの伝統的な儀式水によってではなくてぶどう酒によって起こる、ということでした。つまりクリスチャンなら分かりますが、あの聖餐式でのぶどう酒が人を清めるのです。クリスマスの出来事の中で、新しい一年がぶどう酒による清めの一年であることがその日の礼拝でわたし達に告げられました。そして、おりしもその日は一月一日でした。わたし達を清める一年に神さまは導いていると思うのです。
 そして、クリスマス最後の週顕現主日での聖書の箇所についてです。この箇所を読んでいたときに、星が学者たちを導いていたことに注目しました。彼らは聖書を知っていたわけでもない。しかし、星の運行に何か不思議な思いをはせ、遠方の東方からユダヤにやってくるのです。彼らを導いたのは星であって、そういう意味で夜の旅であった、と思われます。ジオットが描いた絵では多分ハレー彗星がモデルになっていると思いますが、もしそうなら、昼間でも見えたかもしれません。しかし、たった一つの星に可能性を見出した旅ということをわたし達は人生の中でしたかな、と考えました。そう考えるときに、その大半は、居心地のよいところで過ごしていたようです。人生に一度くらい強いられたからではなく、仕方がないからでもなく、自分から始められていく旅という事が引き受けられてもいいのではないでしょうか。あるいは、考え方によってですが、信仰というものが踏み出す勇気として受け止められるなら、その信仰によって自分から旅立っていくということがあってもよいのだろうと思います。通常の生活では、ああでもない、こうでもないといってすっかり批評家となって仕舞いがちことをやめてしまって、あるいは、結局は周りに振り回される、または周りによって自分を決定付けがちな事をやめて、自分から人生を築くような生き方があってもよいのだろうと思います。その結果を一度くらい味わってもいいのではないかとも思うのです。学者たちは星だけを頼りに旅に出た。ヘロデは口当たりのいいことを言いながら、自分のしたたかな野心を満たすことしか考えていない。そういうだます人がいても、星一つに全てを託して旅をした人がいた。そして、夢でお告げを受け、ヘロデの策略から守られて行きます。あの学者たちの生き方こそ神さまは求めているのではないでしょうか。

わたし達新発田教会はそういう流れの中でこの新しいに年に歩みだしました。世間が言っている始まりだからめでたいといった漠然とした、あるいは勢い付けてではありません。そういうところからは始めない方がよいだろうと思います。そういう漠然とした立ち方ではなくて、確かに星が導くというのも漠然としているけれど、目で見えていることではなくて、聖書をとおしてことばとして聞いている事に信頼し、向かって歩き出す大切さを強く感じているのです。
先週はイエスの洗礼の箇所を読みました。あの出来事はイエス固有の出来事のようにも思えます。しかし、わたしはこう思っています。洗礼の起こるところに神さまは天を裂く…。言い換えれば、悔い改めのあるところに神さまは天を裂く出来事を起こす。旧約時代に人々は「神よ。天を裂いてわたし達を救ってください」と祈りました。しかし、その祈りがあったことがすっかり忘れられているところに、しかしたった一人の人物によってその出来事が開始されました。誰一人天が裂かれて恵みが到来することを求めていませんでした。しかし、ヨハネのことばに聞き、悔い改めの洗礼を受けるとき、神さまはイエスにあって天を裂く業を開始なさいました。もしかしたら、私たちの方が奇跡を欲しているのではなくて、神さまの方こそわたし達に奇跡を与えることを欲しているように思えるのです。
悔い改めのあるところに神さまの導きがあると信じて、この一年の旅に出かけましょう。

新発田ルーテル・キリスト教会牧師
士反 賢一


                                 

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