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約束

「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を湧き起らせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべての肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。
雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべての肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」

創世記8章21・22節


 今回は、約束というテーマでお話を進めていきます。このテーマを語るきっかけになったのは、さんびアワーの話し合いの中で松田康子さんが、「約束について皆さんはどういう思いをもつか」という問いかけを行ったことに起因しています。約束について皆さんも考えてみてください。さんびアワーの中では、「子どもの頃は約束というのが大切なことだと思っていたが、大人になってからあまり約束をしなくなった」という発言がありました。つまり、約束をして何かをするということが約束した双方において負担になったり、時に約束に信頼していたにもかかわらず約束が破られて裏切られ心の傷になったりする、あるいは反対に約束を破って相手を傷つける場合もあるからです。改めて考えてみると、実に私たちは約束ということについていろいろなことを経験していたわけです。
 そういう『約束』ということを鍵にして神さまについて今回考えてみようと思いました。というよりも、神さまについて考える場合、本来的には約束こそ一番大切な鍵となるものだったのです。約束とその実現ということこそが神さまを証しする土台だったのです。ですから、新約聖書では、特に福音書においては頻繁に旧約聖書を引用していて、イエスにおいてそれが実現したという言い方を使ってきました。教会で使っている「アーメン」と言う言葉は、意味は「そのとおりです」とか「真実です」と言うことですが、この言葉を使う場合、実際的には「約束したことが本当に実現したでしょう」という意味合いで使われています。つまり、「言ったとおりでしょう」とか「本当だったでしょう」という思いで語られていたわけです。

 本題に入ります。まず、約束というのは一般的に双方がそれを守ることにおいて意味を持つものです。それは皆さんも納得済みですね。ところが、それに比べて神さまの約束というのは実にかなり違ったものです。一番よい例がアブラハムです。ある日神さまはアブラハムに現れて約束をなさいます。「アブラハムに土地と子どもを与える。大いなる者とする」という約束です。アブラハムはこの神さまの約束の中に旅をしていくのですが、結果的に、彼はその約束を守った者だったのでしょうか。そうではありませんでした。しかし神さまは相手が約束を守らなかったにも関わらず、その約束されたことを実現していきました。これこそ神さまの約束が極めて特異なものであることをあらわしています。
 今回掲載した聖書の箇所はノアの洪水物語の終わりに出てくるものです。洪水後、神さまは人類との間に契約を立てました。(注意!聖書の中での契約というのは基本的に約束と同じ意味です。)
契約の内容は、再び洪水で大地を滅ぼすことはないというものです。その際に、注意したいことは契約の内容そのものではなく、といっても、どうしても私たちは契約の内容に目が行ってしまうのですが、断じて契約の内容ではなく、どのように契約を立てているかということに注目してほしいのです。その点に注意して、注目したいのは以下の節です。
「わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべての肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。」
「心に留める」という言葉に注意してください。そうすると、この契約は相手に守らせることにおいて実現するということではなくて、神さまが、神さまご自身との間に契約を立て、そして、実現していくということが分かります。さらに、以下の節も注目してください。これはもっと興味深い言い回しです。
「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべての肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」
「わたし」が地上と神さまとの間に立てた契約に心を留める、となっています。「わたし」とは誰ですか?やっぱり神さまでしょう!ですから、「わたし」という神さまが、神と地上との間に立てた契約に心を留めると言うわけです。ですから、この契約は形でこそ、神さまと地上との間に立てられた契約ですが、その本質は神さまが神さま自身との間に立てた契約だったのです。だから、地上のすべての生き物が契約を忘れてしまっても、また履行することをまったく無視しても、その契約は履行されていきます。
 そもそも、契約というものは、双方がその交わされた約束を履行して力を発揮するものです。そ点は、神さまこそ十分分かりきっています。ですから、契約は必ず契約を交わす相手を必要とします。しかし、その契約を交わす相手には何らかの問題があるとする。すると、そうであっても契約に力を発揮させるために、契約を交わす相手を人間ではなく自分自身にしていたわけです。これは実に大変おかしなことなのですが、そのおかしなやり方こそ神さまの固有のやり方であり、そのやり方を通して、人を約束の中に、恵みの中に、あるいは祝福の中に入れてきたわけです。
 契約を交わすということの中から見出されてくる神さま、あるいは約束するということの中に見出されてくる神様のことを思うときに、そして、その神さまとの対比の中で自分のことを見るときに、ふと私たちはどういう立ち方をしているのかということを考えさせられます。つまり、私たちは、あたかも相手がそのことを守らないのならばそのことをやめてしまう、というようなやり方で立っているのではないでしょうか。
 昔ある本の中で、「説教はたとえ聴きに来る人がいなくても、あたかもキリストに向かって語るようにしなさい」という内容を目にしたことがありました。人が来れば、もちろんそれに励まされて力強くしてもいいわけです。でも、日本の場合、まったく人の集まらない礼拝があってもおかしくありません。そうであっても、説教者は語ります。聴く人に左右されるのは確かに現実ですが、しかしそれを超えて、人が聴いても聴かなくても、明らかに自分の良心が見出したことを説教する、そのことが今一番大切なことだろうと思えます。
 宣教も然り。今の宣教論はあまりにも相手に左右され過ぎたところで考えられているような気がします。そして、あまりにも結果に影響されすぎたところで考えられているように思えます。「うまくいく方法はないか…」といった具合です。そうやって私たちは何か本質を失ってしまっています。

 今、私たちは神さまと同じように立つことが求められているのではないでしょうか。神さまが、ご自身との間に立てた約束を守っているように、私たちも、自分と自分との間に立てた約束を持つべきです。そして、時がよくても悪くても、神さまの助けの中で自分を赦しつつ、あたかもその約束を実現させていくように歩くべきです。あまりにも相手に左右されすぎています。すべてのことにおいて…。そうではなく、あたかも自分と自分との間に立てた約束を履行すべく立ち上がりたいのです。それこそが、「神にかたどって創造された」ことそのものであり、キリストが与えられていた本質であったのではないでしょうか。





                                              新発田ルーテル・キリスト教会牧師
                                                          士反 賢一

                                 

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