牧師のメッセージ                燈心って何? 燈心TOPページへ

恵みに対する考え方

あなた方が彼らに食べ物を与えなさい
マルコ福音書6章37節


 聖書のお話を進める前に、皆さんにご報告があります。村上在住の松田洋子さんのご主人征二さんが、九月八日(木)午後二時頃ご逝去なされました。享年六十八歳でした。
 ご主人は脳梗塞による進行性の痴呆を患っておりました。そのことをきっかけにご夫婦は赴任地の大阪から郷里の村上に戻られて療養されていました。今年の初め、ご主人が病状悪化で入院、しかしその後、洋子さんがご主人と二人でゆっくり語り合う生活をしたいということでご主人を自宅に引き取り、介護を続けておりました。ある日洋子さんのお宅を訪問した折、洋子さんから「主人を見てください」と言われてご主人のいる部屋に行きました。ベッドにはすっかりご自分で何かをなす術を失って横たわっておられるご主人の姿がありました。失礼な言い方を赦していただきたいのですが、あたかもすべてを失って語ることも、することもできずに生きているご主人の姿だけを見るなら無残に思えるかもしれません。しかしわたしには、洋子さんとの関係の中でご主人の姿を見たときに、人の命の重さを見たように思えました。往々としてわたしたちはその人が成したことによって人の重さを量ります。でもご主人の姿を洋子さんとの関係で見た時に、わたしには、人の命の重さはその人が何をしたというのではなくて、愛されていること、あるいは愛されていたことがその人の命の重さであると思えたのです。
 同じ頃、わたしたちはとも子さんの入院ということを経験していました。ある日、とも子さんが入院している病院を訪問すると、お母さんである京子さんがこう言いました。
「とも子がね『生きたい』と言ったの。どうしてって聞くと、とも子が『だってわたしのために看護婦さんが一生懸命だから』と言ったんです。」
とも子さんもまた、いろいろななす術を失ったままで生きてきた人でした。そして、それでも彼女が生きてきたのは、実に病気が治るとか麻痺が取れるということではなくて、愛されていることを見出すときに生きることを選んでいたのです。だから、彼女は愛を知っていました。愛されていることを知っていました。それに比べて、わたしたちはただ知識的にしか愛されていることを見出せず、何かができることに人の価値があるという意味の道を歩んでいたと思えます。キリスト者でありながら、神の愛に生きると言いつつ、しかし実際には、自分が何ができるかということに価値を見出そうとして躍起になっていたように思えます。

わたしたちの命の重さは、神さまがわたしたちを愛しているということにあるのであって、わたしたちの能力の重さではありません!わたしたち人間の質の重さでもありません。生まれた境遇の重さでもありません。ですから力のある人は自らを誇示するためにそれを使うのではなく、謙遜に業を磨き用いるべきです。「わたしは主を誇る」という僕の意味以上に用いるべきではありません。神さまがわたしを愛しているということがその人にとって自らの命の重さなら、その人はうぬぼれた生き方、人を見下した生き方とはまったく無縁です。そして、そうしたわたしたちの歩みの中でわたしたちの謙遜な整えられた業を通して神さまは豊かに働きます
征二さんととも子さん。この二人の死をとおして神さまはわたしたちの新発田ルーテル教会に愛される重さを教えてくださいました。この宝物を大切にして、決して立派なことはできなくても、人の目を引き付ける何かはなくとも、しかしうぬぼれず卑下もせず、人生の中で信じている生活と証の生活を開始し、成熟させていきたく思うのです。


さて、冒頭に掲げた聖書の箇所は皆さんもよく知っている「五つのパンと二匹の魚」のお話です。イエスは男五千人の給食の際に、ただイエスご自身で業を行って給食させることはいたしませんでした。
あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。
とおっしゃって、イエスにとってはほとんど邪魔にはなっても役に立たない弟子とその彼らが持っていたわずかな持ち物、多分その夜イエスと十二人の弟子たちが食べるであろう夕食としてのパンと魚を必要となさいました。
三週間ほど前であったでしょうか。そのときの礼拝での聖書の箇所がこのお話でした。そのお話を読んでいたときにイエスが弟子とその持ち物を用いた理由について考えさせられました。それが「恵み」ということについてだったのです。
実は、わたし個人の中でパイプオルガンを手に入れたい思いが起きました。きっかけは丸山さんがアメリカの神学校に入学する際に推薦状を書いたことにあります。このほど丸山さんが来年卒業するに手紙を受け取ったのですが、そのときは丸山さんに自分のビジョンに向かって歩くことを促しました。しかし、ある日洋子さんからまったく違う脈絡で「教会にパイプオルガンあったらいいですね」という言葉を聞いたのです。その言葉もあって、先に丸山さんには自分の道を歩けというようなことを言ったのですが、新発田教会で常時いなくてもパイプオルガンを通しての活動をしないかということを改めて連絡したのです。わたしは丸山さんにたかってとか利用してという意味で彼女を教会の働きに使う気はまったくありません。しかし、このチャンスにひとつ上の新しい道を歩みだしてみたくなりました。そこで、率直なわたしの考えを彼女に伝えています。そのときにパイプオルガンを手に入れると際に、パイプオルガンはどんなに小さくてもわたしにとっては大変高価なものですから、誰か善い人がいて、わたしの思いを受け止めてくれてプレゼントしてくれないか、というほどのことも考えました。そのことを考えていたときの次週の説教のための聖書の箇所が、パンの奇跡であったのです。
そのとき「恵」ということについて二つ考えました。一つは、わたしにとって必要なものがあたかも天から降ってくるがごとくにかなえられるという類。往々として、こういう意味合いで受け止められるのが恵みです。しかし、今回の聖書の箇所と合わせて「恵み」について考えるときに、人からもらうように手に入れることではなくて、自分とその自分が働いて手に入れたお金で、いわば苦労して作り出すということ、そして、そのお金で手に入れるということ、それこそ「恵み」の証であると強く思うようになりました。
わたしたちが小さかった頃、今でもそうですが、このわたしたちの教会も、わたしたちがささげたお金で建てたものではなりませんでした。そうではなくて、アメリカの献金で入手した土地、それを転用して建てたものです。それなりに苦労したことはありますが、それはお金を作り出す苦労ではなくて、もらったお金を運用する苦労でした。しかし、いまわたしたちはそうではなくもう一歩先の、自らのお金で教会を建てる苦労ということに招かれているとわたしは信じています。わたしたちはまだ「五つのパンと二匹の魚」、つまり今日生きる分だけのものしかありません。しかし、そのように自分たちで用意したお金を使って、種々の痛みを味わって、理不尽も味わって、しかし、他者の手によってではなく、自らの苦労とささげ物をもって教会を作り出す。それが実に、自分たちを威張らせるというのではなくて、「恵みを受けた証」として、そのことを引き受け苦労し出す。それがわたしたちのこれからの「恵み」ということの理解であると思ったのです。ただでもらうという意味の「恵み」理解から、自らが苦労したお金で作り上げるという意味での「恵み」理解。そしてその実際。どこまでできるかわからないけど、他者に依存してではなく、自らの苦労で実現する道を選び取りたいのです。
神に感謝!




                                                 新発田ルーテル・キリスト教会牧師
                                                                士反 賢一

                                 

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