牧師のメッセージ                燈心って何? 燈心TOPページへ

とも子さんがいた

イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れてきた。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された


 今回の燈心では、私たちの教会にとも子さんがいたことについて、私なりに感じたことを書き記します。この文章を書く切掛けとなったのはお母さんが「とも子は本当に愛されていた」という言葉でした。また、とも子さんが入院中薬疹に悩まされて、とても不憫にしか思えない状況だったときにも、お母さんから「あのね、とも子が『生きたい!』と言っていたの。理由を聞くと『看護婦さんが私のために一生懸命だから』と言っていました。」、と聞かされました。私はその言葉に強く心が動かされました。そして、神様が彼女を本当に強く愛していると思いましたし、愛されていることこそが彼女が生きている理由であると思ったのです。
 改めて、とも子さんという人を考えるとき、やはり障害者であったということをどうしても抜きに考えることはできません。その際、まずどうしてそういう人が生まれてくるのかという問いが起こりますが、そのことを追求する気はまったくありません。たとえそれが分かったとしても、とも子さんが障害者であることはなくならないからです。ですから、障害を持ちながら生き抜いた生涯に中に何かを見出すことが相応しいと思えます。その際、聖書でよく出てくる言葉「最も小さい者たちの一人」ということを鍵にするのがいいと思いました。聖書が語る「小さい者」というのは二つの意味があります。ひとつはそもそも小さいということ。もうひとつは小さくされて小さいということです。そして、とも子さんの場合は深い神様の奥義にあって小さくされながら私たちの中にいたのだろうと思うのです。
 冒頭にのせた聖書の箇所では、人々がイエスに子供たちを祝福していただくために子供たちを連れてきました。しかし、その行為を弟子たちは叱ったのです。なぜ叱ったのか…。社会的に生産的に役立たずの子供たちのためにイエスはいるのではない、とでも思ったのか、あるいは、何もわからない子供にはイエスは必要ないとでも思ったのか。少なくても、弟子たちは子供他たちを無意味な小さな者と思っていたのは事実です。また、その子供のために生きている人をも意味のない小さな者として厄介に感じていたし疎んじていたのも事実です。しかし、その弟子たちにイエスは強い憤りをぶつけた。注意したいのです。イエスが憤っていることを。彼は感情を隠さないで語っていることを。どれだけイエスと違っていることを傍にいながら平気で弟子がしているかを。 そして、イエスは「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と言って、子供を抱きかかえて祝福されました。
 今だから私は思うのです。あの抱きかかえられ祝福された子供こそとも子さんだったのではないか、と。それは「とも子さんよかったね。イエス様に祝福されて。」と言うことではありません。そういう奇麗事ですます事ではないと思うのです。そうではなく、イエスという人物を知りながらも、その教えを聞きながらも、その本質を見出せずイエスの思いとまったく異なった世界に生きている私たちの只中にとも子さんが送られてきた。彼女は普通の人ができることはできませんでした。鉛筆がもてませんでした。箸も持てませんでした。歩くこともできませんでした。だから運動会でかけっこをして競い合うこともできませんでした。話すことはできました。しかし、口を自由に使うことができず自分の思いを伝えることに沢山の問題がありました。通常人は自分が何かできることで人々の中に生きている価値を見出すものです。また、そういう自らの業を認められることによって自分の価値を見出そうとしています。そういう意味では、とも子さんには何もありませんでした。でも彼女は愛されていることは確かに感じることができました。唯一そのことが神様を信じることの根拠だったと思えます。そのことは聖書を読めば当たり前のことですが、教会の中は本当にそうだったのでしょうか。マタイの福音書にこういうイエスの言葉があります。
 わたしに向かって「主よ、主よ」と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」と言うであろう。そのときわたしはきっぱりこう言おう。「あなたたちのことはぜんぜん知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。
よくこの箇所を読めばわかりますが「主よ、主よ」と言っている人たちの中で、その中にいてしかし御心を行うものだけが天の国に入ります。その際、御心を行うというのはどういう意味なのかといえばイエスの
 かの日には、大勢の者がわたしに、「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」と言うであろう。
にヒントが隠されています。こういう言葉でイエスの前に立つ人たち、結局は自分をよい人間だと人々に評価されたいがためにイエスのもとに集まり、自分が人々に認められたいがためにイエスの傍らに座っていた人たちです。いわば本心においてはこの世の名誉や名声を求めて集まってきた人たちであり、謙遜ぶった顔をして、善人ぶった顔をして、しかし本心は威張りたい人たちでした。
 一方においてそれらの多くの人々に紛れて、しかし、まったく違った思いを持ってイエスの傍らにいた人がいました。それがわたしたちのとも子さんです。彼女は確かにいろいろなことができるようになりたいと思っていたと思います。しかし、それらはかないませんでした。ですから、彼女は威張れませんでしたし、何一つ威張ろうともしませんでした。彼女にとって、愛されていることを信じることと、それが時々感じられることだけが生きる根拠だったように思えます。沢山の人々の醜さ見せられたことやいやな思いをさせられことも多々あったと思います。でも、それ等のことがあっても、生きていたのは愛されていることを信じていたからです、と私は信じます。そういうとも子さんが私たちの中にいた。
 私たちの中に小さい人がいました。彼女は多くの何ができるかで競い合っている威張りをもった人たちの中で、まったく違った思いを持ってイエスの傍らに多くを語らず横たわっていました。愛されていることだけが彼女のイエスを信じる根拠でした。そして彼女は決して威張っていませんでした。
今私はそのことこそを一番大切にしようと思っています。もし、私たちがイエスに愛されていることを証しするために生きているというならば、私たちは直向に努力しつつ、しかし、決して威張らない立ち方で人生を歩きぬいて行こうと思います。それが私たちの中にとも子さんがいた、ということではないでしょうか。そして、その道に私たちを招くために、彼女は神様にあって私たちの中に送られていたのではないでしょうか。彼女は実に大切な神様からのプレゼントだったのです。
神に感謝!



                                                 新発田ルーテル・キリスト教会牧師
                                                                士反 賢一

                                 

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