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生きている者の神

死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセにどういわれたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあるではないか。神は死んだ者の神でなく、生きている者の神なのだ。

マルコ福音書十二章二十六・二十七節


このテーマについて以前にも燈心に書いたと思います。しかし、改めてこの箇所を書きたく思いました。
 お話の筋道はこうです。復活を信じていないサドカイ派の人々がイエスのもとに来て、問いました。長男が子供をもうけないで死んだ場合、次男はその妻をめとり、子供をもうけて長男の家系を絶やさないようにする、というレビレート婚という制度を利用して、です。サドカイ派の人々はもともと復活を信じていませんでしたから、復活について本当はどういうことかという積極的な意味でイエスに聞きたかったというよりも、復活ということがいかに馬鹿馬鹿しいかということを語って、イエスを辱めたかったのでしょう。
 しかし、イエスはそういうサドカイ派の思惑に甘んじつつも、真剣に復活について証言します。
その際に、イエスはモーセが神と初めて出会ったときの様子を記している『柴の箇所』というところを用いました。あの時、神様はモーセに神様ご自身であることわからせるためにモーセの先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブの神様であるとおっしゃいました。モーセは神様がわからなくともアブラハム、イサク、ヤコブは誰であったか知っていたからです。しかし、イエスは神様がそういう意味でモーセにご自身を顕したことを知りつつも、まったく人には思いつかないことをお示しになるためにこの箇所を引用しています。その際に、イエスの独自のことばを付け足します。それが、『神は死んだ者の神でなく、生きている者の神なのだ。』、です。
 このイエスのことばを鍵にして、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』ということばに目を向けると、神様は死んだ者の神ではないといっていますから、アブラハム、イサク、ヤコブは今も生きていなければなりません。その際に、注意しなければならないのは、アブラハム、イサク、ヤコブがずっと生き続けてきたということではなくて、彼ら全員は死んでいるのです。ですから、死から蘇っているという意味で今は彼らは生きているわけです。そうすると、「生きている者の神」ということばは、今生きている人だけの神ということではなくて、今は死んでいる、あるいは死に向かっていてもよい。しかし、神様はその人を蘇らせ生きている者とさせるということになります。実に、わたし達の神様は、死んだ人を蘇らせるという意味において他の神々と呼ばれるものとまったく異なった神であることをお示しになります。
 皆さんは、このことをどう思われるでしょうか。私自身、この聖書の箇所を今皆さんに語ったように受け止めていませんでした。だから、どちらかというと一生懸命信仰に留まろうとしてがんばっている、というような感じでした。つまり、わたしが自分で自分自身を生きている者として保ち、そのわたしに神様が恵をくださる、というあり方です。自分自身で死なないようにがんばっているわけです。このことを具体的にいうと、たとえば失敗しないようにがんばっているわけです。確かに、何かするときにわたしはわたしなりに精一杯しますが、そのやり方は失敗しないようにやるやり方で、失敗してもいいというように大胆になりきれない要素を多分に含んでいました。また、何一つ失わずにあたらな物を手に入れていく、というやり方です。でも、去年辺りからこういうような生き方ではなくなり出しました。それは、こちら側の努力ということではなくて、導かれていたという言い方の方がふさわしく思います。
 先週の日曜日に読まれた福音書の箇所を皆さんは覚えていると思います。イエスは弟子たちにご自身が受ける十字架と復活のお話をした。これでもう三度目です。そのことの後で、ヤコブとヨハネの母がイエスのところに来てひれ伏して懇願した。ここでひれ伏して、ということばは尋常ならぬ様子を表しているように思われます。もともとひれ伏すということばは礼拝ということばの意味で使われてきましたから、そう考えると、このお母さんは神礼拝をこういう意味で行っていたとも受け取れます。どういう意味でかというと、イエスが栄光の座につくときに自分の子供をそれぞれイエスの右に左につけたい、という意味であったわけです。ここで注意したいことは、イエスは十字架と復活についてお話をしていたにもかかわらず、イエスの復活に焦点をあてた願いことを行ったわけです。その母の願いに対して、イエスは「わたしの飲む杯をお前は飲むことができるか」といわれます。つまり、復活ではなくて十字架を差し出されたのです。人々が復活に与るというのは人間の願い以上に神様の強い思いです。しかし、その神の側に立たれるイエスは、復活を差し出しているのではなく、自らが受ける十字架を差し出しているのです。ですから、今イエスはわたし達を十字架に招いておられるわけです。それは神の復活の業に出会っていくためにです。「杯を飲めるか」と問うイエスはさらにこう言われました。「確かにお前たちは杯を飲む。」。ここでも注意したいことは、「飲むことができる」ではなくて「飲む」とおっしゃったのです。イエスは飲めるとか、できるとか言うわたし達の能力をまったく問題にしていないのです。しかし、無知なわたし達は、自分の能力に目を向ける。そして、できるという範囲の偏った人生にしか踏み出していかない。その結果、世界を小さいものにしてしまうわけです。できることしかしないといううぬぼれでより自分を小さいものにしていくわけです。
 わたし達はイエスが飲む杯を飲む力を持ってはいません。しかしイエスはそれを飲む。そしてそれを飲むことをとおしてわたし達を復活の中に招こうとしている。しばしの間、わたし達は彼の苦悩の顔を見ることになるでしょう。しばらくの間、わたし達は喜びを感じるのではなくて苦しみや絶望、断念を感じるでしょう。しかし、それらのものはわたし達が受けるのではなく、イエスが引き受けていくでありましょう。何故か…。そして復活の中に招かれていくのです。

 この四旬節の中で、イエスは十字架にわたし達を招いております。わたし達の神礼拝が、ヨハネやヤコブの母のように復活に焦点が合わされていくのではなく、今それを断ち切ってイエスが差し出した十字架に合わせていきましょう。今は死んだ者のようになりましょう。彼がわたし達のために死なれたことを聖書の物語をとおして出会っていきましょう。そして、彼の死をとおして神が与えたもう復活の命と出会っていきましょう。

 ふと考えてみれば、神様がわたし達を招いたわけは、わたし達を復活の証人とするためでした。ですから、わたし達が復活に与らなければ証人にはなせません。人々に復活を伝えることが先にあるのではなくて、わたし達がまず復活に与ることが先にあります。弟子たちもそうでした。だから、今苦しんでいていいのだろうと思います。今失望を抱いていていいのだろうと思います。そういう苦しみや失望がわたし達に起こるのは、わたし達の中に何か強い希望があるからです。そして、その希望からあまりにも遠いところで今は生きるしかないから苦しみや失望を感じるわけです。しかし、わたし達の中にある希望は本当は絶対失いたくない希望なのです。でも、今しばらく、この希望を捨てる痛みを感じる必要があるようです。やっとの思いでもかまいませんから、イエスの十字架だけは捨てないで歩んで行きましょう。
 復活が起こります。神様が、わたし達を生きた者にします。
 神に感謝!


                                                 新発田ルーテル・キリスト教会牧師
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