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イエスはどなた?

群集の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえで話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。金持ちは『どうしよう。作物しまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがてこう言った。『こうしよう。蔵を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。一休みして食べたり飲んだりして楽しめ。」と。』

ルカ福音書十二章十三〜十九節


 

二ヶ月ほど前の日曜日に読まれた聖書の箇所です。私は牧師をしている関係、この箇所を何度も読んでいます。そして、今回は前もそうでしたが「貪欲」というテーマで話そうと準備をしていました。しかし、改めて読んでいる中で思いがけない方向に目が開かれていきました。それは今の私にとってとても大切なことだったので、今回取り上げることにしました。

イエスのもとに一人の人が訴えてきました。財産相続が起こり、本来受けるべき正当な相続を得ることができなかったようです。そこで彼は、イエスの名による権威を使って兄弟に不正な分配を止めさせ、正当に分配させようとしたようです。ところがイエスはその人にだれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。、とお答えになりました。皆さんはこのイエスの対応をどう思われますか。イエスというお方が世の不正に対して正しく用いられようとしています。ところが、当のイエスは味気ない反応を示したのです。私たちの日常では良心的に生きようとするときに、よく人の善意を利用したり、利用されたりしているのではないでしょうか。そういうことはあまり口には出しませんが、そういう問題に何度も突き当たってきていると思うのです。そして、良心的な正しい生き方がイエスの権威によって守られる、あるいは、その相手に対して用いられることへの関心と期待が私たちの中に在るのだと思うのです。

しかし、今回のだれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。、とのイエスの答えは、ある意味でそういうことに無関心かのように思えます。でも、イエスは本当にそういう日常の問題には無関心なのでしょうか。どうもそうではないようです。無関心ではなくて、そういう問題を引き起こす根源にある問題に、まず私たちの目を向けようとしているようです。そして、その根源にある問題についてイエスはあるたとえを使ってお話になりました。

ある金持ちの畑が豊作であった。金持ちは『どうしよう。作物しまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがてこう言った。『こうしよう。蔵を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。一休みして食べたり飲んだりして楽しめ。」と。

 ある金持ちがいました、ということから話が始まります。金持ちですから、もうすでに自らが生きていく上で必要とされるものはそろっています。多分イエスは金持ちを引き合いに出すことで、金持ちには金持ちなりに悩みがあるわけですが(多分その大概は将来への不安です)しかし今日生きる分という意味での必要は十分にそろっているということを考えているのだろうと思います。その金持ちの畑が今年は豊作になりました。そこでこの金持ちは、思い巡らした末に、今ある蔵を壊してもっと作物を保存できる大きな蔵を建てることにしました。その理由はこの先何年も何も苦労せず、それ以上にむしろ自らの楽しみのために用いるためでした。

この彼が蔵を建てた理由を見るときに、増えた財産を自分のために用いようとしていることがわかります。また、彼は今の蔵を壊し新しいより大きな蔵を建てることを思い巡らした末見出したということが書いてありますから、彼の予想以上の豊作に当惑した、あるいは、当惑したでは言いすぎなら悩んだはずです。そしてどうしようか考えました。その際の、当惑したとか悩んだということも、あるいは、解決についての考えたことも、そのすべてが結局は自分のために、という理由であることがわかってきます。そうやって考えていくと、イエスがあらゆる貪欲に注意を払い、用心しなさいとおっしゃっていますが、自分のためにということと結び付けてその言葉を考えていかなければなりません。

自分のためにということを考えていくと、先に登場したあの訴えに来た人も、結局は金持ちほどひどくはありませんが、イエスを自分のためにという脈絡でした見ていなかったかもしれません。彼は正当に財産が相続されることを求めてイエスのもとに来たわけですが、そのときに用いられたいわば信仰というものも、実に自分のためにという意味だったのではないでしょうか。そして、そのことイエスは見出したゆえに、一見唐突と思える言葉だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。、そして、あらゆる貪欲に注意を払い、用心しなさいと言って、たとえを切り出して行ったのではないでしょうか。

自分のために。それ自体なんら問題はありません。しかし、その言葉を私たちが使うときに「自分のことだけ」とか自分以外のことにはまったく配慮されていないと言うことが起こるんではないでしょうか。そしてとどのつまり、信仰すら結局は自分のためにしか用いられないということが起こってくるのではないでしょうか。目を転じてキリストを見ましょう。キリストは自分のために私たちの所に来たのでしょうか。キリストは自分のために神の業を使ったのでしょうか。自らの義のためにその業を使ったのでしょうか。あの金持ちのように、豊作を自分の将来の安泰のために用いたのでしょうか。いいえ、彼はそうしませんでした。その最期までそうしませんでした。だから、この私たちのところにまでキリストが、福音が届いたのではないでしょうか。そして、福音を聞いた人たちの中に働き信仰を起こさせたのではないでしょうか。

すべてキリストを信じる人が、キリストと同じ生き方をするわけではありません。しかし、自分が信仰者の末席に座っていると言うことを少しでも思うのならば、今まで培ってきた信仰を決して自分のためにだけ使うのではなく、キリストのためにもう少し使っていいのではないでしょうか。キリストのためにもう少し苦しみを引き受け、ただ物事をするのではなく自らに訓練を課し、成熟させる努力を引き受けていいのではないでしょうか。私は新しいことに挑戦して、新しいことに苦しめとは言いません。そうではなく、今まで行ってきたことでいいのだろうと思うのです。礼拝に参加するにしても、賛美歌を歌うにしても、祈るにしても、献金するにしても、奨励をするにしても、それらができるからする、クリスチャンだからすると言う以上にもう少し苦労を引き受け、もう少し学びや練習を引き受け、もう少し訓練を引き受け、もう少し努力が引き受けられてもいいのではないか、と思うのです。

私たちのすべてにおいて、そのようなちょっとした苦労を引き受けた歩み、そしてそれをキリストに信仰を持って差し出すとき、何か新しい道が開かれてくるのではないか、そう思うのです。

神に感謝!

新発田ルーテル・キリスト教会牧師

士反 賢一


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