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イエスはどなた?

一行が歩いていくうちに、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことを思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」

ルカ福音書10章38〜42節


 聖書が語ろうとしていることがわかってくるというのは、やっぱり時間がかかることなんですね。あるいは、逃げないで真正面から人生と向かい合う勇気を必要としていることを強く感じています。私はもともと努力家ではないけれど、このごろ少しずつですけれど努力家になっていくのがわかります。こつこつ自分の手で積み上げたもので満足していくことでよいのだと感じています。

 さて、今回の聖書の箇所は、二週間前に礼拝で読まれた聖書の箇所、マルタとマリアのお話です。このお話に入る前に、カインとアベルの話を思い出したいのです。カインとアベルそれぞれが神様の前に捧げものを持ってきました。神様はアベルの捧げ物は受け入れましたが、何故かカインのそれは受け入れませんでした。そのとき、カインの中にアベルに対する強い嫉妬と神様への怒りが生まれます。もし、カイン一人神様の前に捧げ物を捧げ、しかし神様が受け入れなかったというのなら、神様への怒りはあっても、アベルに対する嫉妬というのは生じなかったであろうと思います。そのように、通常ではないできごとを経験したときに、いつもなら気づかなかった意外な人間のあり方を通しながら、聖書は人間とは何者かということを語りだしているのです。

 今回のマルタとマリアの場合もしかり。まず場面設定から見ていきましょう。登場人物はマルタ、マリア、イエス、そして弟子たち。そして、中心人物はマルタです。ですから、マルタに焦点を当てて読んでいけばいいわけです。マルタがあわただしく接待をしているのは、そこに弟子たちもいたからです。イエスの世話だけではなくて弟子たちの世話もしていたわけです。そうなるとかなり大変です。

 もてなしをすることは大切なことです。アブラハムのときも、三人の旅人をもてなしたことがありました。そのときにも彼はあわただしく僕たちにいろいろ用を言いつけ、懇ろに彼らをもてなしました。この三人はもてなされることが決して目的ではありませんでした。しかし、そのアブラハムの姿に彼らはアブラハムの心を見たのではないでしょうか、彼は何かを待っている…。長い年月が経っても決して捨て去ることのできない思い…。彼らはあたかもそのアブラハムの思いに答えるかのように、神様の約束を伝えていくのです。ただ漠然としたお客様が大切ということではないもてなしというものがあるのです。日本では、なんとなく自らの人徳を高めるといったような相手ではなく、自己追求型の礼儀作法的な側面だけが強調されていますが、良心が待望していることに関係した深いもてなしというものがあります。その人固有の求めている思いと関係したもてなしというものがあるのです。

 マルタはどうしてイエスの一行をもてなしたのでしょうか。その点については推測の域を出ません。しかし、イエスの傍らに座り、じっとイエスの話を聞いていたマリアをマルタが見たときに、彼女の中に怒りが生じました。マルタはイエスに要求します。「彼女にも私と同じようにもてなしをさせろ」と。マルタにとって、もしマリアがイエスの傍らに座らず、話を聞いていなかったのなら、マルタは決してもてなしをしている自分に不満を抱かなかったでありましょう。しかし、自分と同じもてなす側でありながら、何もしていないマリアを見たときに、彼女の心は揺らいだのです。カインとアベルのときと同じです。ある意味で、特異な状況の中でマルタの心は揺らいだのでした。イエスはそのマルタに向かってねんごろに語ってゆかれたのです。

 どうして、マルタはイエスに怒りをぶつけたのでしょうか。実に、マルタは普段はそう思ってはいなかったでしょうが、周りのことなど気にしないで一切の役割を無視して、イエスの傍らに何の躊躇なく座り、話を聞いているマリアを見たときに、マリアが何のためらいも無く素直な自らの思いに立っている姿を見たときに、マリアに対して強い嫉妬を感じたのです。マルタはマリアがうらやましかった。実に、イエスはマリアに対する怒りを発している言葉の中に隠されていたマルタの心を見抜いていたのです。ここで注意したいことは、イエスの傍にいることとか、イエスの話を聞いているという、信仰的に正しいこととされていることをでは無くて、マルタ本人がマリアと同じように本当はイエスの傍にいたかった、イエスの話を聞きたかったという点です。マルタがイエスのそばにいたいというのは信仰的に正しいからということではなくて、実に本人の正直な気持ちだった、と言うことです。そもそもイエスを家に迎え入れたのは、マルタ自身であったということにおいても、考え方はいろいろありますが、そのことを物語っていたようです

 そのマルタにイエスはねんごろに語りかけます。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことを思い悩み、心を乱している。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない」

イエスが、「必要なことはただ一つだけである」とか「それを取り上げてはならない」、とおっしゃっています。これは強い言葉です。ないがしろにしてはならない言葉です。ふと考えてみれば、教会の中において信仰的に正しいことが求められてしまっていて、自分の心を、思いをないがしろにしてきたことが多々あったのではないでしょうか。あるいは、そういう風潮が教会を支配し、純朴な人の思いが低俗扱いや罪扱いされてきたのではないでしょうか。おりしも今回の燈心の中で、丸山さんが人の思いについて、ただ思うというのではなくてその思いに歩き出すということを語っていますが、私もそう思っています。その思いに歩き出していく思い、自らの手で果たしていく思いというものが聖書では大切にされています。

 イエスはマリアの思いを赦し、引き受け、その思いに答えられていかれた。そして、それを「必要なことはただ一つだけであるとおっしゃった。「それを取り上げてはならない。」ともおっしゃった。この言葉を真剣に受け止め、勇気を持ってその思いに向かって歩き出していくことが今一番大切にされなければならないのではないでしょうか。義務を果たす大切さがある。しかしその一方で、人の思いを赦し、引き受けられたイエスがおられるということ…。このイエスに私たちはどう答えていくのでしょか。

新発田ルーテル・キリスト教会牧師

士反 賢一


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