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怯 え


イスラエルの人々の間に、偵察して来た土地についての悪い情報を流した。
 「我々が偵察して来た土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。我々が見た民は皆、巨人だった。そこで我々が見たのは、ネフェリムの出なのだ。我々は、自分がイナゴのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたに違いない。

民数記十三章三十二〜三十三節

  

 今回は、私が今年度の聖書日課を担当することになって、担当した聖書箇所から大変印象深く思えた箇所を取り上げました。

 冒頭に引用した聖書箇所は結論を語っている意味で引用しました。ですから、皆さんには民数記十三章から十四章四節までをぜひとも読んで頂いて、それから私と共に
「怯え」について考えて頂きたく思います。

 まず十三章からの話はこう言う粗筋です。

 イスラエルの民はいよいよ神さまからの約束の地に侵入するときを迎えました。そこで、民の主導者モーセは偵察隊を送ることにして、各部族(イスラエルは十二の部族から成り立っている共同体です)から一名ずつ選抜し送り出すことにしました。各部族から一名ずつというのは、十二部族からなる共同体にとって偏りの無い情報を提供させるための手段だったと思われます。
 モーセはカナン偵察に当たって偵察隊にこう命じます

「ネゲブに上り、更に山を登って行き、その土地がどんなところか調べなさい。そこの住人が強いか弱いか、人数が多いか少ないか、彼らの土地が良いか悪いか、彼らの住む町がどんな様子か、天幕を張っているのか城壁があるのか、土地はどうか、肥えているかやせているか、木が茂っているか否かを。あなたたちは雄々しく行き、その土地の果物を取って来なさい」

 モーセは二点を偵察させます。一つは土地の様子。そして、もう一つはそこに住む住人の様子。
 偵察隊はモーセに言われたとおり出かけて行きました。そして、エシュコルと呼ばれている谷に着くと、一房のぶどうのついた枝を切り、棒に下げ、二人で担ぎました。また、ざくろやイチジクも取り、四十日間にわたって偵察を行い、共同体のところに帰ってきました。そして、報告をします。ぶどうとざくろとイチジクが物語るとおり、カナンの土地は実り豊かな土地でした。しかし、偵察隊はそこに住んでいた住人について語りました。そして、住人の様子を聞いて民の中に大きな怯えが支配しだしたのです。偵察隊の一人カレブだけは民に
「断じて上っていくべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます。」と進言しました。が、やはり圧倒的な怯えが共同体を支配したのです。冒頭に引用した聖書の箇所が民の怯えの様子を物語っています。
  更に十四章では

「共同体全体は声をあげて叫び、民は夜通し泣き言を言った。イスラエルの人々はモーセとアロンに対して不平を言い、共同体全体で彼らに言った『エジプトの国で死ぬか、この荒野で死ぬほうがよほどましだ。どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトの引き返した方がましだ。』そして、互いに言い合った。『さあ、一人の頭を立てて、エジプトへ帰ろう』」

 彼らは一晩中泣き言を言ったのです。そして、荒野でのつぶやきの定番の言葉を発します。そして、エジプトへ引き返すことを希望するのです。彼らがエジプトへ引き返すことを希望しだした理由は、本当にエジプトに引き返すことが意味あることであったからではなくて、怯えていたからでした。人生の中で時に志を断念しなければならないことがあります。それは決してないがしろにしてはならないことです。しかし、自らに志があり、しかし、怯えている理由で断念しているとするならば、今回の聖書の箇所から考えるなら、それは罪です。皆さんの人生の中で、あるいは私の人生の中で、志を断念したことがあったと思います。その際に、客観的にそうすることが大切である場合もあるのは確かです。しかし、ここで注意したいのですが、良心の領域でよく考えて頂きたいのですが、もし、怯えが根拠でそれを断念させ、あるいは志変更の理由であるとするならば、そのようにして人生を歩んでいたとするならば、それは本当に問題だと思うのです。この箇所を読んだとき、本当に強くそのことを感じました。そして、人生を振り返りました。

以下に書いているのは、その箇所を読んで考え、そして聖書日課のために書いた原稿です。

『偵察隊の報告を聞いてイスラエルの民は、新たな指導者を立てエジプトの地に引き返すことを考え出しました。理由はカナンの土地が実り豊かな地であることはいいのですが、そこに住んでいる住人の強さに強い怯えを感じたからです。ですから、エジプトに引き返すのは本来的な歩みではありません。怯えにすっかり支配されてしまった上での選択です。
 正直にいいますが、私の人生の中で怯えに支配されてしまったがゆえにしたくてもしなかったこと、しなければならなくてもしなかったことがいくつかあります。今、今日の聖書の箇所を読みながらそのことを私は考えています。ある時は怯えていたことが分かりませんでした。ある時は本当は怯えていたのにそれを認めたくありませんでした。もっともらしい理由をつけて自己正当化していました。
 そういう人生をこれからも繰り返すのかと自問します。今日、もし怯えてしまってしないことを選ぼうとすることがあるなら、怯えたままでも一つでもすることを選ぼうと思ったのです。

 教会の中で、福音はすでによくわかっているけれども、結局は怯えているがゆえにその道を歩まない選択がなされているケースが多々あるのではないでしょうか。これは教会に限らず、通常の生活においても良くあるのではないでしょうか。確かに、志を断念しなければならないことがあります。しかし、何度も繰り返しますが、結局はその断念の根底的な理由が怯えであったとするならば、その選択は取り消さなければなりません。もし怯えが理由で選択を変更したことがあったとするならば、その選択こそを取り消し、私たちは最初の志に戻ってもう一度歩き出さなければならないのではないでしょうか。私はそう思ったのです。そして、怯えていても、その道を歩みだすことこそ人生であると思ったのです。

 パウロ・ティリッヒという神学者が「信仰とは生存の勇気である」と言いました。その言葉を改めてかみ締めています。私たちの信仰の問題は、あるいは人生の問題はできないでもなく、能力が無いでもなく、境遇が恵まれなかったでもなく、怯えていたからではないでしょうか。そして、怯えながらでもその志に向かって勇気を持って歩みだすことこそ、本来的な私たちの歩みだったのではないでしょうか。

 皆さんはどう思われますか。

新発田ルーテル・キリスト教会牧師

士反 賢一


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