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復活を信じるということ

その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。

マルコ福音書十六章十四節

  実に、「イエスの復活を信じるということ」が、私が牧師になるときからのテーマでした。神学校を卒業する際に、神学生は四月からどこかの教会に牧師として赴任するのですが、私が神学校を卒業した年は四月の第一日日曜日が復活祭だったのです。ですから、牧師になって一番最初にしなければならない説教は、復活に関して、でした。そこで、そのことを見越して私は復活を説教する準備をしていたことを思い起こします。結果的には、私は学校勤務となり復活の説教をしなくてもよくなりました。内心はほっとしていました。なぜなら、私にとっては、復活を説教することが断片的にしかできない状況だったからです。

 実に、今でもそのことは変わらないように思えます。そして、本当のことを言うなら新発田に来て九年目になりますが、その間九回あった復活祭のたびごとに復活のことを考え、一つ一つ整理がなされ、少しずつ復活を信じるということがどういうことであるかが分かってきました。そして、今年はやっと復活を信じるということの実際的な出発点に立てたような気がしました。今回は、そのことについて書きます。

 冒頭に掲載した聖書の箇所は、復活したイエスが弟子たちに現れ、弟子たちをとがめたことが書かれているところです。イエスは、弟子たちをとがめました。何をとがめたかというと、不信仰とかたくなな心を、です。そして、この文章を読んでいくと、ここで言うイエスがおとがめになった不信仰とかたくなな心とは、復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかった」ということがわかります。つまり、不信仰とかたくなな心とは、イエスにとって復活を信じないことを指しています。更に、この信じないことということをもっと厳密に受け止めるなら、復活を信じようとしないことを言っています。注意してください。信じられないではなく、信じようとしない、つまり、信じることを決断しようとはしないことを言っているのです。自分の心に聴いてみて下さい。信じられないのでしょうか。それとも、信じることをためらっているのでしょうか。イエスがとがめたのは、信じられないではなく、信じることをためらっている、そして、信じることを選ぼうとしないこと、そういう意志の問題なのです。

 さて、次は復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかった」、ということについてです。実に、ここでも注意しなければならないことがあります。
 復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかった」
 この文章をよく注意して読んでください。イエスは復活を信じなかったことをおとがめになったのではなくて、復活されたイエスを見た人々の言ったことを、信じなかったことをおとがめになったのです。実に、イエスは復活したイエスを見たかどうかを問題にしているのではなく、見た人々の言ったこと、つまり、弟子たちにしてみれば、彼らが聞いたことを信じようとしなかったこと、を問題としています。

 復活についていろいろな方とお話して来ました。その中でよく聞く話が、「弟子たちは復活したイエスを見たから信じられたのではないか」というものです。つまり、この言葉が言わんとしているのは、もし自分も弟子たちと同じように復活のイエスを見ることが出来たのなら、自分も信じる者となれるかもしれない、ということです。更にことのことを追求していくと、信仰というものは(信仰に限らず、その人にとって何でもいい、ともかく特別にしていることに当てはまるのですが)、そのことが求められていくということが人に起こるのは、復活のイエスを見たような何かそういう特別な経験があってこそ起こる、という思い込みがなされがちです。この様な構造を持った人間のあり方というのは、実に私たちの生活の中で多様に使用されています。つまり、往々として特異なことが、物事が開始されるときの根拠となっています。たとえば、私はだれだれと違って何々が出来るからする、とか、あの人は他の人と違って特別な信仰を持っているから、ああいうことが出来る、とかです。

 しかし、今回取り上げた聖書の箇所に注意してください。イエスが弟子たちに対して問題としたことは、弟子たちが復活のイエスを見たにもかかわらず信じなかったということではなくて、イエスが復活なされた、あるいはされるということを聞いていたにも関わらずイエスの復活を信じなかったことです。言い換えれば、得意な経験があって信じられるのではなく、通常に聞いて来たイエスの言葉によって信じることをイエスは求めていたのです。そして、ここでも注意したいことは、繰り返しになりますが、信じなかったではなく、信じようとしないと言うことです。意思をもって信じていこうとはしない、ということです。

少しわずらわしい話になりましたが、よく自分の心を確認してみてください。今回、二つのことを書きました。一つは、信じるという言葉の持つ意味は、信じようとする、という意思決定がなければならないこと。もう一つは、得意な経験があればではなく、通常の礼拝の中で聞くことにおいて信じられていくということ。そして、この二点は、よく考えてみれば分かってくるのですが、結局は、復活を信じることをためらっている、あるいは、信じる道を歩こうとする意思決定をしないという人間の問題点を語っているのです。

 私たちは状況がよくなれば、信じられる境遇を手に入れれば、信じられると思い込んでいる。違います。状況が悪くても、信じられる境遇を失っていても、信じることはその人の中に起こるのです。今問題にされているのは、復活のイエスに会わせてくれないというような信じられる境遇があるかとかないとか、または、私を信じさせる助け人がいるといないとかではありません。いわば、そういう神様の側の問題ではないのです。そうではなくて、信じることを選ぶ決断を恐れている、私たち人間が問題とされているのです。イエスの十字架は起こったのです。そして、イエスの復活も既に起こってしまったのです。それらは私たちの将来の約束ではなく、過去のことであり、既に起きてしまった出来事の中に私たちは生きているのです。それが私たちの信仰の根拠です。私たちの信心深さでもなく、経験の豊かさでもなく、能力でもなく、ただ、十字架と復活を起こさせた神様の熱心が私たちの信仰の根拠です。

ですから、大切なことは、心的に復活が信じられなくても、信じ切れなくとも、ともかく中途半端な状態のままで、しかし、復活があることにしてしまって、それを選びそこに歩き出すことです。ベトサダの池でイエスが三十八年間病で歩けなかった男に言った言葉を自らが引き受けることです。

汝こそ意思して歩け!

病が治ってからではない。病の引きずったまま、しかし、そこから歩き出すこと。実にそれが、復活を信じていることです。心的な、信じられる心というのは、それを引き受けたときに少しずつ私たちの中に育まれて来ます。信じられる心が先ではない。信じる心が未熟でも信じる道を歩き出すことこそ、復活が信じられている証なのです。そして、神様自らもその歩き出した人の只中で、復活の真実をあからさまにして下さるでしょう。

 神に感謝!

新発田ルーテル・キリスト教会牧師

士反 賢一


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