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僅かな持ち

イエスは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。『パンは幾つあるのか。見て来なさい』弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」

そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとめて腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。

マルコ福音書6章37〜44節

 

 持ち物が僅かであると言うのは、私たちにとってどういう思いを抱かせるでしょうか。大抵の場合、「僅か」という言葉は「僅かしかない」という言い方がされますから、積極的な意味を持っていません。そして、特に私たちが何かを開始しなければならない場合、この僅かさというのが決断や行動を取りやめてしまう原因となってしまいます。

 イエスの説教を聴きに大勢の人々がやってきました。今回引用した聖書箇所には男が五千人食べたと書いてありますから、もし子どもや女を含めるなら、万単位の人々が集まっていたわけです。今の時代のようにマイクなどの音響設備がないのにイエスの話を聴きに来るというのは意味があることなのでしょうか。でも万単位の人々がイエスのところに集まってきた。そして、集まってきたすべての人にその声が届くということは信じがたい状況であってもイエスは彼らに向かってねんごろに語られていた。イエスの声は聞き届けられるかどうか分からない。しかし、彼は語り続けるのです。彼の途方もないあつい思いを感じます。

 弟子たちがイエスに声をかけました。夕方になり始めています。このままでは集まった人々は野宿しなければなりません。そして、それぞれが夕食を手に入れなければなりません。一人二人なら、弟子たちが用意していた夕食を分かち合うことができます。しかし、この状況はまったくの論外です。弟子たちは集まってきた人々への配慮と自分達の状況を考慮してのイエスへの進言だったと思われます。しかし、まったく予測していなかった言葉がイエスから出てきました。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」です。こういう状況の中で、今まで一度も聴いたことのない、まったく意味不明の言葉です。弟子たちは客観的に見た状況を改めてイエスに説明します。イエスは答えます。「パンは幾つあるのか」。弟子たちは、まじめにもう一度調べイエスに報告します。イエスはその差し出されたパンを取って裂き、賛美の祈りを唱え、神の祝福の中に置きます。そして、弟子たちの手を通して、人々の与えたのでした。

 僅かな持ち物。ここで考えられなければならい僅かな持ち物とは、ただ単に持ち物を言うだけではなく、才能の小ささや能力の未熟さ、社会的な地位のなさや生まれてきた境遇の小ささ、育ってきた境遇の惨めさなどです。そして、僅かな持ち物しかないということは、私たちにとって何時も何もしないということに結びつけられてしまっています。特に多く聞く言葉は「できないからしない」とか、「以前にしたことがない」とかという理由です。そして、「以前、したことがない」というのは分からないからしないとか、戸惑ってしまうからしないという類の意味合いで語られています。しかし、そのよういなわずかな持ち物にある人の只中で働かれる神の業が今日の聖書の箇所で語られています。もし、キリストを信じることを引き受けるとするなら、敬虔深い生き方も結構ですが僅かな持ち物と共に歩きだす人生を引き受けるべきです。そして、それが引き受けられたとき、敬虔な生き方も豊かに祝福されるでしょう。また、キリストが信じられていなくても、僅かな持ち物であっても歩き出す人を神が祝福すると私は信じています。そして、いつか豊かにキリストが出会って下さるでありしょう。

また、反対に考えたいことは持ち物の大きさということです。才能の豊かさ、能力の熟練社会的な地位の大きさ、出生の豊かさ、環境の豊かさなどです。そして、そうであるがゆえに踏み出せるということが多々あります。しかし、こういう歩み出しは人が小さくされる時虚無的になりがちです。あるいは偽善というわなにはまりやすくなります。歩み出すことは大切ですから境遇的に歩み出せてもいいのですが、やはり僅かな持ち物であっても歩き出す人生を私は引き受けたい。豊かさや貧しさが歩く歩かないの条件ではなく、歩き出すときに、豊かさが生かされ貧しさもまた知恵となっていきます。

一度しかない人生を、ある意味で自分的には遅すぎたかなと思ってしまっていても、この聖書の言葉にあって引き受けることを私は選択します。キリストが来てくださっていること、それは家の中に留まっていることではなく、家から出て未だ分からない未来に向かって歩き出すことです。

神に感謝。

新発田ルーテルキリスト教会牧師
士反 賢


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