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方向転換

 
神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために、悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
 これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。
 谷は全て埋め尽くされ、山と丘とはみな低くされる。
 曲がった道はまっすぐに、
 でこぼこの道は平らになり、
 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』                                      ルカ福音書3章3〜6節

 今回取り上げた聖書の箇所は、この待降節第二主日で読まれた聖書の箇所で、洗礼者ヨハネの宣教の部分です。でも、クリスマスの季節にヨハネの宣教記事を読む、ということについて疑問に思う方もいるかもしれません。そのことについて、少し説明します。
 日本ではキリスト教というとクリスマスと結びついてしまいがちなのですが、そもそも、キリスト教にとって一番大切なことはイエスの十字架と復活でした。そこで、教会はイエスの十字架と復活を迎えるにあたって、日曜日を除く四十日間に渡っての悔い改めの期間を設けたのです。それが受難節でした。四世紀になってローマがキリスト教を国教としたとき、今度はクリスマスが教会の暦の中に組み込まれました。その際、受難節と同じように準備期間として待降節を置き、悔い改めをもってイエスの降誕に備えようという趣旨で教会の季節に組み込まれました。ですから、ヨハネの宣教の記事を読むというのは、本来でしたらヨハネの宣教はイエスの公生涯の開始と結びついているわけですが、悔い改めの宣教という意味において、待降節に読まれているわけです。

ところで、教会が悔い改めをもってクリスマスを迎えようとしていたことを知ると、何となく日本では忘年会の時期と重なって祭り騒ぎとして受け止められがちなクリスマスが、別な意味を持って感じられてくるのではないでしょうか。そこで、今回は悔い改めるというテーマでクリスマスを迎えたく感じたのです。

悔い改めるという言葉は、どうも一般的には「反省する」という意味合いで受け止められがちです。しかし、悔い改めるという言葉の語源となったヘブル語は「シューブ」という言葉で、その言葉は「帰る」という意味です。それを聖書の救済の物語の脈絡から見ていくと、神様によって造られた人間が、エデンの園の出来事で神のもとから離れていった。その離れていった神のもとに帰ろうというのが「シューブ」という言葉で語られているわけです。現代人にとってはそういう聖書の物語は作り話のようにしか感じられないのが一般的です。そして、私は多分それでよいのだろうと思うのです。確かに、作り話というとそれは虚構的にしか受け取れられません。ところが、ある日人間が実に物語に生きているということを見出されるときに、聖書が語っていた言葉が人の中で事実となってきます。どうしてそうなるのかはわかりません。それは人生の不思議さの大切な一つだと思うのです。

さて、悔い改めるということを今の脈絡の中で考えていこうと思います。ルカ福音書を読んでいくと具体的に悔い改めについて書かれています。それはユダヤ人であるならば自動的に洗礼を受けられるものだと思って集まってきた人々に向かって発せられたヨハネの言葉
「『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」
とか、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物も同じようにせよ」
。あるいは、徴税人に向かって「規定以上のものは取り立てるな。兵士に向かっては「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」という言葉で語られています。つまり、ユダヤ人に対しては「ユダヤ人だから俺達は特別なんだ」、という特権階級的うぬぼれ。普通に生きていると思っている一般市民に対しては自分の生活はちゃんとしている、できているという意味での他者との比較の中での自己正当化。しかし、実際は全く他人に対して自らを与えようとしない。徴税人に対しては既得権を使っての利益への固着という貪欲。兵士に対しては権威を利用しての搾取などから離れていくことだったのです。詳しい話はしませんが、それらは今の私たちが当たり前と考えていること、しかし、その中にどっぷり浸かってしまって見失ってしまっている、あるいは何か忘れてしまっている人間としての欠如が鋭く指摘されています。今でも、本当にヨハネの指摘は大切にしなければなりません。

このヨハネの指摘の延長上にあって、今回のクリスマスを迎えるにあたって、私なりに考えてみたことがありました。これは毎年繰り返されることなのですが、クリスマスが代表的な例を挙げると、彼女とあるいは彼氏と一緒に過ごすという形で迎えられている現実についてです。いわば、思いがかなう、あるいは思いがかなえられるという意味の特別な日としてクリスマスが何となく受け止められている、ということです。私個人として、彼氏と一緒に、あるいは彼と一緒に過ごすクリスマスという類は、正直な話私自身も持っていますしという意味も含めて積極的に良いと思っています。しかし、毎年クリスマスが迎えられるたびにその話が繰り返されるということ、そのことを考えるときに、何時も人は思いをかなえてもらう、いわば受身のもらう側に立ち続けている、ということに思えてなりません。もらうということは大切なことです。しかし、一向にもらう側に立ち続けている、そして、自分から何も開始していかないというのはいかがなものでしょうか。わたし達は、確かに神さまとの関係においては、何時も一方的に受けるしかありません。ですから、受ける側というのは大切にすべきです。しかし、その際何を受けているのかわかるでしょうか。自らの足で立つ命です。ですから、世の中に向かっていくとき、あるいは、世の中に立つとき、実はここにおいてももらうことから開始されるのですが、やがて、必ず自らが立つことが始まっていかなければなりません。

このクリスマスの季節に、ヨハネの悔い改めの言葉を聞くとき、あの荒れ野で叫ぶ者の声がする『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』という言葉を聞くとき、何時も夢をかなえてもらうという意味で受け止められているクリスマスから出て行きたく感じました。何かをしてもらうクリスマスではなく、自らの足で立っていくクリスマス、自らの思いを成し遂げていくクリスマスに入っていこうと思いました。それは、このクリスマスだけで終えるのではなく、このクリスマスから開始されていく、私にとっての歩み出しです。

彼氏と一緒に過ごすクリスマス。彼女と一緒に過ごすクリスマス。それでもいいのだろうと思います。しかし、人がその人生を引き受け、自らの足で歩み出すことがないのなら、大切な人を食いつぶして生きていく人生になってしまいます。大切な人を人生に神さまが下さる時、自らの人生が引き受けられていくことと関係させて考えられなければなりません。また、クリスマスにいくら宗教性が重んじられても、自らの足での歩み出しと共に宗教性が重んじられなければ、その宗教は見せかけとなるでありましょう。

わたし達はクリスマスを迎えようとしています。世の中と同じくお祝いもしようと考えています。しかし、祭りごととしてだけ終えるようなクリスマスは、私は迎えたくないのです。

皆さんに、祝福が豊かにありますように。

新発田ルーテル・キリスト教会牧師
士反 賢一


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