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キリスト

 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走りよって、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのでしょうか。」イエスは答えて言われた。「なぜ、わたしを『善い先生』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者は誰もいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子どもの時からまもってきました。」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

マルコ福音書十章16〜22節

 今回のテキストは、先だって十月十九日の主日礼拝で読まれた福音書の箇所です。その聖書の箇所での説教を準備するために読んでいくなかで、何故かふと私自身の視点が転換したので、そのことについてお話をします。

 この男は、真剣にイエスに答えを求めてやってきました。そのことは、「ひざまずいて尋ねた」と書いてあることで分かると思います。また、その態度はファリサイ派がイエスに質問したときとはまるっきり違っています。そういう意味でも、この男が真剣であったことが伺えます。さて、この男はイエスに質問する際に、まずイエスに向かって「善い先生」と呼びかけました。そして、「何をすれば永遠の命が神様からいただけるのか」と尋ねました。この言葉をイエスはどう聞いたのでしょうか。普通ならば、質問されたことに答えるものです。しかし、イエスはこの男に質問に答える以外の何らかの関心を持ったようです。そして、イエスは男にまずこう切り出します。「何故わたしのことを善い先生というのか。善いと呼ばれるお方は、神様お一人しかいない」と。私は、このイエスの会話の進め方に大変興味を持ちました。福音書の他の箇所でも、誰かがイエスに質問する場合、それに対してのイエスの答えは質問に即座に答えていくという形にはなっていないのです。福音書を読んでいくと、ある人物がイエスのもとに来て質問していくことから始まっている物語が多くあります。その場合は大抵そうなのですが、その際のイエスの受け答え方は、その質問にすぐ答えていくと言うのではないのです。そうではなく、まず質問者を全然別な視点に立たせて、次にその新たな視点から質問に答えていく場合が多いのです。たとえば、断食論争です。人々がイエスに「何故あなたの弟子たちは断食しないで、食事会ばかりしているのか」と尋ねます。そうするとイエスは「婚礼の席で、人は断食するのか。」と言い出すのです。断食論争をしているのに、そこに全く関係のない「婚礼」というテーマを持ち出し、質問者にとって全く思いがけない視点に彼らをたたせ、それから、イエスは断食について語りだします。今回の場合も、男の、永遠の命を手に入れる方法についての質問に対して、やはりイエスはその質問に答えていくのですが、その際、まず「善いと呼ばれるお方は神様お一人だけです。と切り出します。そして、この男が「人は何をすれば神の恵みに与れるのか」という、人がなすべき行為や方法をイエスに尋ねているのに対して、イエスは、「善いと呼ばれるのは神お一人である。とおっしゃってます。つまり、質問者を人や人の行為ではなく、神、あるいは神がなさっている業の方に目を転じさせていこうとしているかのようです。

更にこの物語を読み続けていきます。イエスはこの男に対して言葉を続けます。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬えという掟は知っているはずだ。。それに対して男は、即座に先生、そういうことはみな、子どもの時から守ってきました。と答えました。その言葉を聞いて、イエスは彼をじっと見つめ、慈しんで言われた、と聖書は記しています。皆さん、何故イエスはこのとき、この男をじっと見つめたのですしようか。そして、慈しみを強く持ったのでしょうか。このことが私に関心があります。私はこう思ったのです。イエスは、この男に十戒の隣人に対しての規定を話されました。その際、その箇所をもう一度よく読んでみてください。イエスは「知っているはずだ」と言いました。しかし、この男はイエスのその言葉に対して子どもの時から守ってきました。と答えたのです。イエスは「守るべきだ。」とは言っていません。しかし、この男は何か答えに先走るかのように、イエスの言葉を守るべき行為として聞き、そして、答えてしまっているのです。多分、その男の答え方に対して、イエスの心が強く動いたのだろうと思うのです。何故、この男はすべきこと、人間の側の行為にあまりにも強く縛られているのかと…。

神の言葉と言うものは、二つの枠組みで語られます。一つは、神が引き起こす出来事。そして、その出来事に関わりを持たせるかのように、命令の言葉。信仰と言うと、わたし達は従うことをまず考え出します。そうすると、そこで起こった神の出来事はだんだんどうでもよくなるものです。従っているという人間の側の行為の方が大切にされるのです。実に、ファリサイ派の人々の信仰とは、神の恵みではなく、人が神の命令に従っているかどうかという人間の側の行為こそ信仰における最大の中心ごとでした。そうすると、神の恵みが分からなくなる…。実に、イエスは、この男に対して、信仰の世界に生きながら神の恵みに生きるのではなく、神の命令だけに縛られて、それを正しく行っているかどうかだけ、つまり、人間の側の行為にだけ固着してしまっている、その彼に目が留まったのではないか。

イエスの言葉は更に続きます。その男に対してあなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人に施しなさい」とおっしゃいます。多分、この男が財産を持っていること、それゆえに人間の側の手段や方法にばかり関心が行ってしまうことをイエスは強く感じたのではないでしょうか。もしそういう持ち物がこの男に全くなかったのなら、この男のなすべき信仰のあり方は、ただイエスの懐に飛び込んで行くと言うことしかないのではないのか…。下手に持ち物を数多く持つと、わたし達は小手先の方法論にすべてを託してしまい、イエスの懐に飛び込んで行ったその第一歩目のことを忘れてしまっているのではないか。いつでもそうだけれども、やり方が大切ではなく、歩き出すことの方こそ全ての始まりではなかったか。そうやって、わたし達はいつもまた新しい方法を手に入れて行ったのではないか。

イエスの心は燃えます。永遠の命は、人間の正しい行為に対する神からの報酬ではなく、神からあなたへの全くの贈りもの、恵みであることを示すために。従うと言うことは本当に大切だけれども、従うということは、恵みを、あたかも報酬を手に入れるかのような手段としてしまうことではなくて、恵みを受けたからこそ、あるいは恵みを前にして人が選択していく歩み出しであること、それが従うと言うこと、そのことをわたし達は明確にしていかなければならないと思うのです。

そういう視点に立ってこの聖書の箇所を読んでいくうちに、一つのイエスの言葉に不思議な思いにさせられて行きました。それは、「行って持っている物を売り払い、貧しい人に施しなさい」という言葉です。この言葉は確かに命令形で書かれているけれど、それゆえに、わたし達がなさなければならいと言う意味で聞かれてしまっているけれど、出来事を語っているのではないかと感じたのです。そして、実にイエスこそ、わたし達のためにこの世に来て持っている命を売り払い、施している、と聞こえてきたのです。そして、それを受けよと招いているように聞こえてきたのです。そのことを、あの日の礼拝では皆さんにお伝えいたしました。

いつの間にか、私は自分のがんばりに根拠を置いて歩き出してしまっていたようです。確かに私はこれからもがんばるけれど、それは、イエスが成し遂げると言う意味で、です。そして、完全な歩き方ではなく、問題を持ったまま歩くしかない本来的な自分の歩き方で、これからも歩んでいきたく思ったのです。

キリストがわたし達の只中に来てくださっている。そのことがわたし達への福音です。宗教改革を記念するこの季節に、もう一度、自分たちの信仰のあり方に根拠を置くのではなく、この恵みの到来に根拠を持ち、その中に身を投じて歩み出して行きたく思うのです。

神に感謝!

新発田ルーテル・キリスト教会牧師

士反 賢一


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