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献金について

 人は神を偽りうるのか。
 あなたたちはわたしを偽っていながら、
 どのようにあなたを偽っていますか、と言う。
 それは十分の一の献げ物と
 献納物においてである。……

 十分の一の献げ物をすべて倉に運び、
 わたしの家に食物があるようにせよ。
 これによって、わたしを試してみよと万軍の主は言われる。
 必ず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き、
 祝福を限りなく注ぐであろう。    マラキ書三章八、十節

 献金について皆さんに示すと言うことを、七月の会員会で言いましたので、今回は燈心の紙面を借りて献金についてお話をいたします。その前に当教会における献金額の推移について若干説明いたします。

 わたしがこの教会に赴任してから八年が経ちました。赴任当初予算は五百六十万円ほど、それから2年前の二〇〇一年までの間は、毎年約十パーセントずつ上昇し、二〇〇一年では八百七十万円ほどまでになりました。この上昇の仕方は、匿名や葬儀等での高額な献金によって、いわば励ましを頂きながら教会員による通常の献金も上昇していくようなあり方でした。ところが二〇〇二年はそうではありませんでした。外部からの励ましは一つもありませんでした。それどころかデフレの話もさることながら、教会的には、特に新潟地区においては渡邊先生の入院や川瀬先生の引退問題など、それ以前には阿部先生の引退、与斎先生の退任など教職者不足による足元をすくわれる問題のただ中に当教会は置かれました。以前のように外部からのお膳立てのあるところで教会を建て上げることは出来なくなったのです。そういう経過の中で今わたし達は、本当の意味で神の前に立たされ始めています。イエスの言葉で言うなら、あるいはイエス物語の中で語るとするなら、あの五つのパンと二匹の魚のお話の中わたし達は招かれ、あの弟子たちのいわば十三番目の弟子として新発田教会は呼ばれ、そして、イエスから言葉が語りかけられているのです。

あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」

そして更に、

パンは幾つあるのか。見て来なさい。」

この5つのパンと2匹の魚物語の脈絡の中に自らの身を置いて、献金について考えてくだされば幸いです。


 さて、本題に移ります。まずどうして献金は十分の一なのかについてです。この件に関して、歴史的にははっきりとした根拠はありません。それ水のバプテスマと同じです。バプテスマも何故その方法を用いたのかについては、全く分からないのです。しかし、ヨハネはそれを用いて人々に神への信頼そして悔い改め(立ち返り)を勧めたのです。ですから、献金の場合にもどうして十分の一になったのかは分からないのです。しかし、十分の一を献げるという根拠をアブラハム物語で記しています。ロトの救出劇で凱旋したアブラハムを祝福をもって出迎えたいと高き神の祭司サレムの王メルキゼデクに、アブラハムはすべての十分の一を献げたと記されています。これが十分の一の根拠となっています。これはアブラハムを信仰者のモデルと見た場合。また、シナイ契約を根拠においた場合、レビ記に記されていますが、献げ物規定を取り扱っており、そこでも十分の一という考えが貫き通されています。この場合は祭儀的意味合いです。多分、十分の一という考え方の根拠はアブラハム物語が根本的な土台となっているようです。ですから、献金は基本的に信仰において、そして私達の良心において十分の一を基本として考えなければなりません。

さて、次に、この十分の一をどのように献げるかということです。まず、月定献金。月定献金は聖書の中には出てこない言葉です。多分、このことが現実的に定着していく根拠は、教会との関係においてです。教会は献金によって運営されています。その際に、不定期にあるいはお金があるときにというように献金されるのであればたとえ結果的に帳簿があったとしても教会運営は大変不安定なものとなってしまいます。そこで、教会との間で約束を行い、教会が安定した運営が出来るように配慮するために起きてきたものです。この月定献金は教会によっては約束献金とも言われています。私達の教会でもこの月定献金が慣習化しています。正式にどこかで決定されたものでは多分ないでしょう。ともかく習慣としてそれを行っています。その際、月定献金は十分の一献金ではないことに注意しなければなりません。しかし、十分の一してはいけないと言うことでもありません。

 ただ、当教会において月定献金は献金の中心となっているのは事実ですから、総献金額の7.8割くらいを目処にするのが良いかもしれません。

 次は、礼拝献金です。実はこれこそが本来教会の中で行われてきた献金の原型です。あるVYMが月定献金用の袋を渡したときに、毎週用にしても良いかと尋ねられたことがありました。アメリカはそういえば週給の習慣があります。もしかしたら、この週給という賃金の払い方は教会の主日礼拝に合わせて支払われるようになったのかもしれません。しかしながら、私達の間では月定献金が主流となってしまっていますので多くの場合、礼拝献金はある金額決めて奉げているのかもしれません。わたしの場合、教会の礼拝では司式を行っているので献げず、csの礼拝でそれを奉げています。そして、大体金額を決めて行っています。しかし、他の教会の礼拝に参加した場合や特別なときには通常より大目の金額を奉げます。また、月定が何らかの理由で出来ない方の場合、本来は礼拝献金こそが基本ですから、そこで十分の一という目安で行うのが一番ふさわしいと思うのです。

 夏期、冬期特別献金についてです。当教会の場合、牧師に支払われる夏期・冬期手当てのためにお金を集めるために行われています。しかし、日本の習慣ではこのごろは不確実になってしまっている場合もありますが、ボーナスもらっている場合、そこから十分の一を目安にして献金をするのは本来的です。牧師に手当てを出すためにと言う意味合いで現状では当教会で行われていますが、そうではなく、収入があるわけですから、それを根拠にして献げるべきです。ですから、夏期、冬期特別献金を募る場合、何時も十分の一を根拠として役員がご案内しています。

 維持資金についてです。これも教会の維持のためお金が必要となったことがきっかけではじめられたようです。これは、確かに献金と言えば献金ですが、わたしどちらかと言うと会費的な意味合いが強いように感じています。実際的には十分の一の中から振り分けて行うので良いと思われます。

 そのほかに感謝献金等たとえば受洗記念、誕生、出産、結婚、記念などです。必要に応じて神様の恵みに応える意味で行ってください。

 結婚している場合、片方がクリスチャンであって特に本人が妻の時、十分の一を奉げることは困難かと思います。その場合、わたしが勧めているのは家庭的に本人が自由に采配できる範囲で十分の一を目安にしての献金です。

 献金をする場合、まず考えて欲しいことは十分の一という額は月定、礼拝、特別、維持献金全体を含めてであると言うことです。その中で本人が考えそれぞれの献金に対して決めたことを果たしてください。

 五つのパンと二匹の魚でのイエスの言葉あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」に対して自らの献げ物が神様に差し出されるとき、5000人を豊かに養った、神の業が豊かに教会を支配するでしょう。

新発田ルーテル・キリスト教会牧師

士反 賢一


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