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季節外れの実

翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなっていないかと近寄られたが、葉のほかには何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、おまえから実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。  マルコ福音書十一章十二〜十四節

聖書にはいろいろなお話がありますが、今回取り上げた聖書の箇所は、わたしにとって人生に示唆を与える大切なお話の一つです。

 このお話は、イエスの最後の一週間の一こまで、このお話の後イエスはエルサレムに行き、神殿の境内で、そこで売り買いしていた人々を追い出し、あるいは両替の台をひっくり返したりする、いわゆる『宮清め』といわれている行為をするのですが、今回のこのいちじくの木の話は『宮清め』の出来事と実に深く関係しているわけです。

 さて、イエスがエルサレムに滞在するときには、エルサレム市内に宿泊するのではなく、エルサレムから二、三キロ離れた近くにある村ベタニアで宿泊し、朝その村を出てエルサレムに上り夕方また夕方また村に帰ってくるのでした。ヨハネ福音書を読む限りにおいて、イエスは宣教活動行ったいわゆる公生涯と言われている間三回エルサレムに上っているのですが、エルサレムに滞在している間は何時も、近隣の村で宿泊をしていたようです。ラザロの家がその主なるものと考えられます。で、この日イエスはエルサレムに向かうのですが、そのためにベタニアの村を出る時、空腹を覚えられました。そこで、あたりを見渡すといちじくの木がありましたので、その中で最も実がなっていそうな木のところへ行きいちじくの実を探したのです。しかし、その木にはいちじくの木の実はありませんでした。聖書は、いちじくの木の実がなかった理由を「いちじくの季節ではなかったからである」と記しています。つまり、今は実の季節ではなかったのです。ですから、実がないのは当たり前でした。しかし、イエスは季節外れであってもいちじくが実をつけることをご存知であったわけです。ですから、季節外れに実を付けていることを期待していちじくの木のそばに行ったのでした。これが、今回のテキストの中心部です。季節外れであるにも関わらず実を付けている、そのことがイエスにあって期待されていたのです。実にそれがまた、イエスがその後エルサレムに行き、その神殿で「宮清め」という不可解な行動をとる理由にもなっていたわけです。

 そうです。神殿はイエスにとって季節外れであってもその機能を全うしているべきものだったのです。実に、神様は神殿をそういう働きをなすものとしてイスラエルにお与えになった。ところが、神殿は外見的に実り豊かないちじくの木として成長したが、そこには葉ばかりで実がなかったのです。あるいは、確かに季節には実を結んでも、季節外れに実を結ぶ本来的な機能は全く果たしていなかったのです。それどころかその特異性を利用して商売に用いられてしまっている。正確には、神殿がではなく、神殿を利用している人々が、です。これが、神様が言った命令は分かっても、その真意は分からない。あるいは、神さまが言ったことは分かっても、その御旨は分からない、と言う問題です。イエスの嘆きが爆破します。そして、宮清めをおこなったのでした。

 ラインハルト・ニーバーと言う神学者が

変えるべきものを大胆に変える勇気。変えてはいけないものを変えない勇気を、神様与えてください」という類の祈りをしているのですが、難しい言葉のように聞こえますが、実に、この問題はわたし達の生活の中に蔓延しています。そして、多くの場合、変えなくて良いものを変えてしまい、変えてはならないもの変えていくのです。いわば、それが、流されて生きているということだろうと思うのです。

 季節外れでも実を結ぶと言うこと。それは難しいことと思えます。しかし、この聖書を読む限りにおいて、わたしは難しいと言うふうに考えるのではなくて、神様は季節外れでも実を結ぶ命に与るようにわたしに関わってくださっていると読むのです。そのために、イエスを与えてくださった、と信じるのです。そして、出来ないことであっても、やるべきことに向かって、あるいは、他の人が見てばかばかしいことであっても、よく考えた上で自分で決めたことに、あたかも、このお話の中に身を投じるように歩き出すのです。

 最後に、よく教会で耳にする言葉についてお話します。それは、「出来ることをしましょう」と言う言葉です。この言葉はそれ自体問題ではありません。しかし、そのことが使われている脈絡を見てみると、結果的には、出来ることしかしない人生を選択してしまう危険性をはらんでいます。つまり出来ることだけしましょう、ということです。でも、本来的に、「出来ることをしましょう」と言う言葉はそういうことに使うのではないのだろうとわたしは考えています。そうではなくて、「出来ることをしましょう」と言うのは、出来ないことがあっても「出来ることからしていきましょう」と言う意味で使われて、本来的な役割を果たすのではないでしょうか。ですから、「出来ることをしましょう」は保っていいのですが、出来ることだけをしていく人生を選択するためではなく、出来ないことでもしなければならなくなったときに、出来ることから開始していくと言う踏み出すための位置づけとして使いたいのです。

 いちじくの実の話を通して、季節外れでも実を結ぶことが神にあって起こることを思うときに、わたしはそう思うのですが、皆さんはいかがでしょうか。

新発田ルーテル・キリスト教会牧師

士反 賢一


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