牧師のメッセージ                燈心って何? 燈心TOPページへ

「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前で出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
           マルコ2章9〜12節

起き上がれ ‐罪の赦し‐

 二月九日の礼拝の中で説教に使った聖書の箇所から、今回はお話を進めていきます。

 新共同訳聖書を読んでいると、お話ごとに表題が付いています。今回取り扱っているテキストは二章一節から十二節までで、そこには「中風の人をいやす」と言う表題が付いています。そうすると、わたし達はそのテキストを読んでから自分で表題を考えると言うのではなく、その表題を見て頭から「この話はイエスの行った癒し話なんだ」と思うことが多々あるわけです。確かに、今回のお話では中風の男が最終的には床を担いで歩き出したのですから、イエスが癒されたと言うことは事実です。しかし、この箇所を読んでいて大変面白いことは、イエスは一言もこの中風の男に向かって「癒されよ」とは語っていないことです。つまり、この聖書の箇所は、イエスの癒し話の一つと言うこと以上に、確かに癒し話ではあるのですが、イエスがその癒しを通して現そうとしているイエスご自身の隠されている姿こそが中心テーマ、であるわけです。そして、それゆえに私が皆さんに注意を促したいことは、癒されること、いわばそういうイエスが行う神秘的な出来事に気がとられてしまうのではなく、あるいは、癒されるというイエスがなさってくださる結果にばかり目が向けられるのではなく、癒されることが起こる前にイエスがその男に語った言葉をよく聞いてみよ、と言うことなのです。
イエスはこの男に何と言ったでしょうか。

「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」

と言われたわけです。

まず、「わたしはあなたに言う。」この言葉を蔑ろにする事は出来ません。この言葉の意味を強く出すように翻訳するなら「他でもない。このわたしがあなたに言う。」と言うことです。この点については、マルコ福音書を最後まで読んでいき、もしあなたが「わたしは」と言われたイエスがあなたにどのように関わってくださっていたかが分かると、大変重みのある言葉であることに気づくでしょう。しかし、そうでなければイエスの「わたしは」という言葉は、「イエスはそんなことを言っていたな」くらいでしかありません。ともかく、あなたがあなたに命を差し出したイエスの、その十字架を見出した時、あなたがあなたに伸ばしたイエスのその手に打たれた釘のあとを目にした時、そして、そのイエスがあなたのためにその命を差し出していたことがあなたにとって事実となった時、その際、あなたが全くそのイエスと異なっていて、色々なことはしてはいるが根源的には所詮自分のことしか考えずに生きていることを知った時、つまり、あなたのためにその命を差し出したイエスに対してあなたは自分のためにしかその命を用いていないという大変大きな違いをもって生きていることにあなたが気づいた時に、「わたしはあなたに言う」と言われたイエスの言葉が重い言葉として受け止められてくるはずです。

 次に、特に今回はこの点に中心をおいているのですが、起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」と言う言葉についてです。先にも述べましたが、イエスは「癒されよ。そして、床を担いで家に帰りなさい」とはおっしゃらなかったのです。そうではなく、「起き上がれ」と言われた。そして、「床を担いで家に帰りなさい」、と言われた。私が述べているこれらの二つの文章の違いが皆さんは分かるでしょうか。つまり、私はまずイエスの癒しの業があって、それからこの中風の男は歩き出し、床を担いで家に帰ったのではない、と言うことを二つの文章の違いを通して言いたいのです。そうではなく、この中風の男はイエスの言われた言葉通り、まず自ら起き上がり、そして、床を担いで家に帰ったのです。つまり、イエスが癒し病気が治ってからこの男は起き上がったのではありません。ただイエスの言葉に従って、まだ病気であったのにまず自らが意思して起き上がったときに癒しが起こったのです。これが、今回の話のテーマとなっている「罪の赦し」、と言うことです。そして、これが罪の赦しに生きている、と言うことです。罪の赦しというのは、独特な信仰的な言い回しですが、神学的に難しい話を言うことでは全くない。そうではなく、単純に罪人のままで起き上がって来ることを言うのです。この聖書の箇所で言うなら、中風のままでしかし自ら意思して起き上がる、あるいは、まだ中風という病気であるにもかかわらず自ら意思して起き上がってくる、と言うことです。ところが、一般的にはそうではない。まず病気が癒されてから起き上がってくると言う形で考えられていて、そういう形で癒しが求められ祈っています。皆さんはどういう形で癒される、あるいは神に助けられる、あるいは、救われると言うことを受け止めているでしょうか。罪人のままで自ら起き上がるとか、罪人であるにもかかわらず自ら意思して起き上がってくる、病人のままで起き上がってくると言う意味で信仰を受け止めているでしょうか。もし、あなたが癒しを欲しているなら、神に助けられることを望んでいるなら、あるいは、神に救われることを、あるいは祝福を受ける、導かれる、開かれる、自由にされていく、用いられていく、成長していく、あるいは、自らの望みをかなえていくことを欲しているならば、そのことを神に求めるだけではなく、まず自らが意思して起き上がりなさい。その際、あなたが完全になってからではない。問題が解決されてからではない。調子がよくなってからでもない。信仰を持ってからでもない。あるいは、信仰をもっと強くしてからでもない。それらは今までやってきたことでしょう。しかし、結果的に何も始まらなかったのではないですか?そうではない。今のままで、問題を持ったままで、未熟なままで、あるいは信仰がないままで、病人のままで、しかし、まず自らが意思して起き上がりなさい。そこに神の業が実現する。そこに、神の祝福が始まる。そこに神の導きが豊かな広がりを持って見出されていく。それが、イエスを通して与えられた信仰です。そして、どうしてそれが起こるのかというと、罪の赦しがそこにあるからです。

 この中風の男は何を考えていたのでしょうか。
この男に信仰があったのでしょうか。少なくとも聖書を読む限りにおいて、この男の信仰については全く語っていません。というよりも聖書は、この男の信仰など関心がなかったのです。この中風の男を連れてきた四人の男たちには信仰があったようです。しかし、それもただ「イエスに癒してもらおう」くらいのことです。しかし、イエスはこの男に「癒されよ」ではなく、「起き上がれ」との言葉をお語りになった。しかも、その言葉には問題を持ったままでも起き上がることの出来る力があった。その言葉には罪の赦しがあった。つまり、この男に信仰があるとかないとかそんなことはどうでもよいのです。わたし達にとっては単純に、イエスのこの言葉に従って罪人のままで、未熟のままで、問題を持ったままで、信仰のないままで、病人のままで、しかし自らが起き上がるかどうかが問題なのです。そして、そのことが始まるとき、イエスの「起き上がれ」との言葉がわたし達の罪を赦し癒す、強める、導く、開く、自由にする。わたし達は何故だか分からないが、そういう神の恵みの中に生き出すのです。

 今の時代について私が多くのことを語らなくとも、どういう状態であるのか皆さんの方がご存知のはずです。この中にあって、何もしないで行くのも自由です。しかし、そうであるならば、結局ははっきりと言いますが他人任せです。自己本位です。人それぞれ思うところがいろいろあると思いますが、いずれにしても、自らが意思して起き上がるか起き上がらないかがすべての鍵となります。成功するとかしないとか、人に認められるとか馬鹿にされるとか、そんなことは本当にちっぽけなことです。自ら意思して起き上がるか起き上がらないか。その一点が、あなたがその人生に悔いを残すか残さないかの境目ではないか、と私は思うのです。

皆さんに神様の祝福がありますように。

神に感謝!

新発田ルーテル・キリスト教会牧師

士反 賢一

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