牧師のメッセージ                燈心って何? 燈心TOPページへ

恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。
    ルカによる福音書10章10節〜12節

神様からの贈りもの

世の中は、特に若い人たちの間では感傷的にクリスマスを迎えたいのだろうと思います。心の中に秘められたことがかなえられる日として、この日を用いたいと考えている人が大勢いるのだろうと思うのです。また、ある人たちは忘年会との絡みの中で羽目をはずす手段として、無礼講の日としてクリスマスを用いています。または、商法としても用いています。それらは決しておかしいことではないけれど、私はそれらのことを思うとき、私はそれらのことを思うときに、ルカ福音書の降誕の記事の中で取り扱われているシメオンの言葉を思い出します

「多くの心にある思いがあらわにされるためです。」
 ところで、二千年前のクリスマスの日にはどうだったのでしょか。聖書が記しているクリスマス物語に登場してくる人物達は羊飼い(複数)、イエスの母となるマリヤとその夫ヨセフですが、彼らはあの日をどのように迎えたのでしょうか。実際は、彼らの誰一人として感傷的にこの日を迎えてはいませんでした。羽目を外す日でもありませんでした。今わたし達がしているようなクリスマスとは全く違った状況の中で彼らはその日を迎えました。では彼らは何をしていたのか、どこに、そしてどのようにその日を生きていたのでしょうか。

マリヤはある日突然、御使いから受胎告知を受けます。それは彼女にとって大変大きな戸惑いでした。しかし、彼女はその出来事に何故か身を委ねて行きます。その出来事に、許婚のヨセフすら激しい動揺を覚えます。しかし、夢を通してのお告げでマリヤを受け入れ、自分の考えを捨て彼もまた神に身を委ねます。しかし、彼らはあのイエス誕生の日をゆっくりと待つわけには行きませんでした。ローマからの勅令でイスラエル全土の人口調査がなされ、彼らはその関係で住民登録をするためにガリラヤの町ナザレから自分の家系の町ベツレヘムへ行き、そこでイエスを出産するのです。しかも、あの勅令の関係で多くの人々が故郷へ異動せねばならず、宿屋には彼らのための空き部屋がなかったのです。そして、家畜小屋での出産。そして、飼い葉おけを幼子のためにベットとするしかありませんでした。ローマというこの世の権力の渦に巻き込まれた社会の只中で、彼らはも無力で振り回されており、特別な人として大切にされ静かに落ち着いてその日を迎えることなど出来ませんでした。

羊飼いたちもまた、イエスの誕生があることなど全く知りませんでした。何時ものように彼らは夜に羊の番を行っていました。先日、知ったのですが、ユダヤでは羊と山羊を一緒に放牧しているのだそうです。しかし夜になると、山羊は小屋に入れます。何故なら、山羊は寒さに弱いそうで、その関係でそうするのだそうです。そして、羊は寒さに強いので、そのまま外においておくのだそうです。その関係で、羊飼いも夜を羊と共に過ごすのでしょう。そういう人たちの只中に神様からの贈りものイエス誕生の出来事が起きました。

そうやって見ていくと、彼らはごく普通の人たちでした。別な言い方をすると、支配する側ではなく、支配される側の人たちでした。自分たちで世界を動かせる人たちでははく、動かされてしまう人たちでした。また、世の中から特別に重んじられる人たちでもありませんでした。

また、彼らは信仰深い人々でもありませんでした。教会は時々人間の側の信仰深さに神の救いの業が現れると考えてしまいますが、しかし、あのときの彼らは、少なくても羊飼いたちは決して信仰深い人たちではありませんでした。彼らは教会で祈っているわけでもありませんでした。礼拝しているのでもありませんでした。ましてや、教会の働きをしているのでもありませんでした。普段の、そして、世の中に支配されてそこで生活している人たちでした。しかし、その人たちの只中にイエス誕生が起こったのです。

彼らが信仰深いかどうか、そのことにはほとんど関心がないのです。そんなことよりも、神様がなした業に、またはなす業に強い関心を持っているのです。もし、人間の側の信仰心に中心をおいてしまえば、それは、一番大切なときに何も役に立たないでありましょう。教会が自らの信仰深さに救いを求めるとしたら、それは、優越主義になるでありましょう。あるいは、世間逃避と言うことにもなりかねません。

わたし達が信仰深くなくても、世の中に流されるように生きるしかなくても、しかし、神様はこのクリスマスの日に、わたし達に実に豊かにイエスを与えてくださいます。それがどういうことか分からなくても、あの時、マリヤもヨセフもそのことは分かりませんでした。しかし、彼らはその出来事の中に自分なりの考えを持っているにもかかわらず、身を委ねていきます。それが、このクリスマスの出来事を通して、まずわたし達が大切にしなければならないことだと思うのです。ですから、今まで信じてきたとか、今まで信仰を持ってがんばってきたとかと言うことを捨ててしまって、わたし達も、あのマリヤとヨセフのように、この出来事の中に身を投じ、貧しさの中で、飼い葉おけと布に包むしか出来ないのだけれども、そうやって精一杯自分の腕に抱いて、この幼子を育んで行きたいのです。神様が欲しているのはこの幼子のために用意された高価なベットや暖かい毛布ではありません。自分の思いを一度捨てこの出来事の中に身を投じていくあなた自身と、そのあなたが準備できるわずかな飼い葉おけと布です。神様はそれを今一番あなたに求めておられます。すべてのことがそうだけれど、何時もその始まりは小さい。そうであったはずです。しかし、その小さなものから大きな実が結ばれていく。

また、ローマ書に書かれているけれど、何時もその始まりはたった一人の人間から始まります。ローマ書はこう書いてあります。

「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。……。しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。」
 私はこの言葉を読むたびに、大切なのは「わたし自身」であると思っています。わたし達は往々として、皆がしないから私もしない、皆がするから私もするという世界観の中で生きてしまっている。そして、結局は何時も自分からは立ち上がらない。あるいは、仲間を引き連れて勢いをつけて行動を開始する。しかし、それって本当に生きているって言うことなのだろうか。しかし、私はこの言葉を聞くときに、改めて、神を信じると言うことは自分から歩き出すことである、それも一人でと言うことと考えます。一人は小さい。一人は無力です。しかし、クリスマスにわたし達に与えられたイエスもあまりにも小さく、貧しく、また一人だけです。しかし、この一人から多くの命があふれ出て、恵みの賜物が世界を支配し出しました。だから、私もまた、小さく、貧しく、そして一人でよいのだろう。その私が差し出せるのは、精一杯やっても五つのパンと二匹の魚という僅かだけど、その五つのパンと二匹の魚がイエスにあって男五千人を豊かに養いました。だから、私はあきらめません。先行きが全く見えなくとも、今日もまた自分の足で歩き出すのです。

 イエスを与えてくださった神に感謝!

新発田ルーテル・キリスト教会牧師

士反 賢一

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