牧師のメッセージ                燈心って何? 燈心TOPページへ


復活といのち

 こと信仰に関して、わたし達人間がキリストの復活を信じるということは決定的に大切なことなのですが、しかしながら、イエスが死人の中から復活したと言う出来事を信じるということは、わたし達人間にとっては、本当は本来的には信じ得ない出来事なのです。そして更に、その人間の中にある復活を信じ得ないと言うことを追求してよく見ていくと、実に復活を信じることを拒絶しようとしている自分と言うものにすら出会ってしまうのです。このことに関しては、聖書の中でパウロがこう述べています。

「わたしは自分のしていることが分かりません。自分の望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。……わたしは自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうとする意思はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」   -ローマ書七書十五~十九節-

このパウロのことばを借りて人間が復活を信じようとすることにあてはめるなら、「復活を信じようとする意思はあるが、それを実行できない。わたしは自分の望む復活を信じることは行わず、望まない復活を拒絶する悪を行っている」、ということになります。ですから、復活は本来的に人間には信じられないというのが正解ですし、更には復活を信じることを拒絶しようとする問題すら有してわたし達人間は生きているということです。

しかし、そうであるにも関わらずわたし達は、特にクリスチャンの場合何故なのかは分からないのですが、信じなければならないという何か強迫観念的な分からない圧力に脅かされるかのように復活を信じている振りをしまいがちです。この点に関しては、聖書ではサタンという言葉で語られている存在が関与してきます。サタンというのは一般的には悪霊とか、悪魔と言う言い方がされるのですが、ヘブル語のサタンとは「告発者」という意味です。わたし達が信じることを強迫観念的に強いられてしまう傾向があるのは、「信じていないのなら訴えてやる!」と言うような声なき声のようなものをどこかで感じているかのようです。告発者の前で人はおびえ、自らの正当性を誇示したくなり、背伸びしがちになりです。いわばサタンと言うのは、先ほど言った人間の信じようとする意思を持ちつつしかし信じ得ないその隙間に漬け込んでくるのです。この問題に関しては、次のイエスの言葉を思い起こしてください。

つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。
                                    
‐マタイ十八章七節‐

注意しなければならないことはつまずくことではありません。つまずかせる者となってはならない、と言うことです。人の弱みに付け込むとか、人の善意を食い物にするとかという類のことは、たとえ自分が弱くされても、イエスの言葉から避けなければならないのです。

さて、復活を信じようとしても信じ得ない問題を持っているわたし達、更には、深いところで信じることを拒絶する問題すら持っているわたし達にあって、しかし、復活を信じるということはどういうことなのでしょうか。先だって、田上いずみルーテル幼稚園の機関紙に書いた説教を改めて教会むけに書き直して以下に掲載しますので、読んで、考えてください。

私にはこの春で大学三年生になる息子がいます。東京の夜間の大学に通っているのですが、この二月に実に一年半ぶりに家に帰ってきました。彼は高三の時に一度授業でスキーに行き、それが大変面白かったらしく、私は今回の帰省を利用して彼をスキーに連れて行くことにしました。彼にとっては二度目のスキー。最初は足ならしの意味で斜度が十度未満の初心者コースで一緒に滑っていました。一時間くらい滑って休憩したのですが、彼には面白かったらしく一人でまた滑り出しました。どうも斜度が二十度位の中級コースに挑戦したかったようです。彼は初めてのスキーの時に、この中級コースに挑戦したのですが難しかったようです。ですから、今回はどうしても制覇したかったのでしょう。しかし、私の見る限りでは彼のスキーは危なっかしい。実は、今回私には考えていたことがあって、彼を斜度三十度以上の上級者コースに連れて行きたかったのです。そこはコースとしては難しいのですが、大変景色がよく海抜九百メートルの高さから新発田市を一望することが出来ます。そこで、午後になってから彼を思い切って上級者コースに連れて行くことにしました。最初彼は渋りました。興味半分怖さ半分。でも、私に押し切られて行くことに…。さあ、それからが大変。右にターンしては転びスキーは外れる。やっと立ち上がって今度は左にターンするとまた転んでスキーが外れる。二キロくらいのコースを滑るのに(転げ落ちるのに?) 小一時間を要しました。滑り終えて、彼に「もう一回行くか?」と尋ねると、彼はしばらく沈黙。しかし、彼には意地があったのでしょう、再チャレンジ。結果は前回と同じく惨憺たるものでした。その彼の姿を見ていて、私はやっぱり牧師なのでしょうか、聖書の言葉を思い出しました。「つまずきは避けられません。」というイエスの言葉です。

キリスト教と言うと、神様が守ってくださるというわけですから一般的に何となく転ばぬ先の杖的に受け止められがちです。しかし、本当のキリスト教はつまずかないように生きるのではなくて、実に人がつまずきながらも生きていくことを引き受けることと深く関わっているのです。そして、そのキリストは、「わたしは復活であり、いのちである。」と言う言葉にあって、実にキリストご自身が、人がつまずいたときに、再び立ち上がらせる力となってくださいます。勇気となってくださいます。そして、それこそが聖書で言うところのいのちと言うことなのです。聖書の言ういのちとはただ生きているということではありません。つまずくのですが、また起き上がってくることをいのちと言っているのです。そして、そのつまずいたときに起き上がってくるいのちと言うのは、わたし達人間の中にある、わたし達が今生きているこの命(聖書ではその命を自然の命とか、肉の命とか、ふるい命と言っています)とは別なものである、と聖書は語っています。そういう自然の命とは違っているいのち、それこそがわたし達の外(古くから教会は「わたし達の救いは外から来る」ということばを使い、人を救う力はわたし達人間自身の中には存在せず、わたし達人間の外からの力にあって救われる、と語ってきました。)に立っておられるイエスご自身であり、そのイエスご自身がそのことばと共に働いて人をつまずきの中から起き上がらせるいのちとなってくださるのです。ここで注意して欲しいのは、イエスがあなたにいのちを与えてくださるのではなくて、イエスがイエスご自身をあなたに与えてあなたの再び起き上がってくるいのちとなってくださる、と言うことです。なぜそうなのかは、ただイエスがそうやって一方的なご意思であなたにご自身を与える、いわば愛としか言いようがありません。

復活のイエスと出会う。その点に関して言うならば、あなたはつまずく人生は歩かないのか、つまずくのだけれどもよく考えて本来的な意味での自分らしい人生を歩いていこうとするのか、そのどちらをあなたが選ぶのか、にかかっているのです。

神に感謝!
                                  新発田ルーテル・キリスト教会牧師

                                            士反 賢一
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