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| シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネを弟子にしたイエス様はカファルナウムへやって来て会堂で教え始められました。イエスが「権威ある者」として教え、居合わせた男の悪霊を追い出したので人々は非常に驚いたと言う話が、前回の箇所でした。その後のシモンとアンデレの家での話が今日の箇所です。 「すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った」とありますので、驚き騒ぐ民衆を避けるように、イエス様たちがシモンとアンデレの家に行かれたように想像しました。 長く臥せっていたのか、たまたまその日に熱を出して寝ていたのか、詳細は何もかかれていませんでしたが、そこではシモンのしゅうとめが熱を出して寝ていました。人々は早速、イエス様に彼女のことを話します。するとイエス様は側に行き手を取って起こされたことで、彼女の熱が去ったとだけ書いてあります。 いろいろと背景を考えて「癒しの理由」みたいな事を考えてみたくなるのですが、マルコ福音書のこれまでの描き方を見ていると、あまりそのようなことは関係ないように思えます。前回、悪霊を追い出した場面も、イエス様はそもそも会堂で教えておられたところに、悪霊に取り付かれた男が居合わせたからでした。でも、イエス様は人々に教えを説いていた会堂でその男と出会い、悪霊を追い出してくださったのでした。今日も、イエス様は人々と一緒に訪れた家でシモンのしゅうとめに出会いそこで癒して下さいました。神さまの御こころを伝えながら旅をするイエス様。そのイエス様と出会った人達が癒しにも出会っている、そのことがよく分かります。今日書かれていた癒しも人々の求めというより、ただイエス様との出会いによってイエス様が起こした業でした。 家に病人が寝ているという、私たちも経験する見栄えよくもなんともない日常の生活の中にイエス様の方から来られ、そこで向かい合って下さる。漁師を弟子にした場面もそうでしたが、人々の準備とか強い求めとかに関係なく、今日もイエス様からやって来られました。自分がイエス様を迎えるべく準備万端整っているとか、良い事をしているとか全く関係なくイエス様から来てくださる、それがイエス様と私たちの出会いだった事を思い起こします。 そして、イエス様はしゅうとめに対して特別なやり方ではなく、その手を取ってただ起こされました。イエス様がされたことは「手を取って起こす」事でした。それによって何故かしゅうとめは回復して、また普段のように働き始めたのです。なんと単純というか、しかし、不思議な描き方ですが、「起こされて、起き上がり、自分のすべきことをやっていく」というのが、イエス様の癒しそのものなんだろうなあと感じました。 そもそも、熱を出して寝ている病人の手を取り起こすなどということは誰もしないように思います。でもその誰もしないことをするイエス様に出会ったからこそ、病の中から起き上がって自分のすべきことを始めていくという事が起こることがあるのです。自分から特別になろうとする事とは全く違う話で、はっとさせられました。教会の現状や将来を考えると焦ってしまい、いかにイエス様に出会うか、奇跡を起こしていただくにはどう頑張ればいいのかと理屈で考えて、自分から何か特別な事をしなくては、というように思い込みに捕らわれてしまいます。たまたま何かうまく事が運ぶと、それは自分たちの頑張りの成果だと勘違いもしてしまいます。そうやって自分たちを中心に考えてしまうのはやめようと思いました。 きっとシモンのしゅうとめは素直にイエス様の手に引かれ、起き上がったのでしょう。すると彼女の熱は去りました。そして彼女はイエス様たちをもてなしました。 イエス様は、病人の手を取って起こしてくださる方です。そのような方が今私たちと共にいてくださる。感謝します。 |
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