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マルコによる福音書を読む 6 松田 康子
権威ある新しい教え
一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。 (マルコ1章21節〜26節) |
先回の箇所で4人の漁師たちを弟子にしたイエス様がカファルナウムという町の会堂に入って神様の教えを話された時の出来事です。「安息日に会堂に入って教え始めた」とありますから、今の私たちの礼拝にイエス様が来られてお話をするような場面を想像しました。
イエス様のその教えに人々が非常に驚いたとあります。なぜ驚いたかと言うと律法学者たちの教え方と違っていて、権威ある者として教えられたからと書かれています。当時の人たちが会堂で律法学者から聴いていた教えとかなり違った印象を人々が受けたことが想像できます。イエス様が具体的に何をどのような言葉で話されたかは書かれていませんが、律法学者たちは、神様の教えを知識として、正しさとして、人々に伝え、さらには「こうしなさい、こうしてはいけない」と指図的に教え、結果的には人々を縛る形でしか伝えられなかった事と対照的なイエス様の教えだったのではないかと想像しました。当時の人々にとって、律法学者も「権威ある」人たちだったはずです。しかし、それとは違う権威、神様側の権威という事を聴く人たちが感じたと言うことだと思います。「自分たちはこれまで指示的に教えられたり、勝手にそう思い込んでいたりしたけど、本当は神様の意図は違ったんだ」と私たちが説教で新たに気づかされるのと同じではないかと思いました。
でも、この後イエス様が悪霊を追い出した事で、人々の心はさらに動かされます。イエス様が本当の神様のお話をされた後に悪霊を追い出すという業を行われたこの場面は、イエス様がキリストであることを言葉と共に奇跡の業で示された場面だと言えます。今聖書を通して客観的に見ている私たちにとっては、そのように受け止めることができます。でも、その事を目の当たりにして人々はなお更驚いて論じ合っています。人々がイエス様の教えに驚き戸惑っている中で、悪霊だけが確かにイエス様のことを「神の聖者だ」と認め「かまわないでくれ」と拒否している事も興味深い事だと思いました。たとえ神様が何か大切な事を私たちの只中に起こされても、その神様の意図を受けとめ切れず、自分たちの思惑の中であれこれ考え戸惑ってしまうのが私たちの姿かも知れません。
今日の話の中でイエス様は、驚き戸惑い、さらには拒否する存在もいる中に立っておられました。その混乱したような状況の中で人々は驚きながら「神様側の権威がある新しい教えだ」という事を初めて感じたのだろうと想像します。私たちが神様のこと、イエス様のことを信頼しようとしているのは、整った状態で信じられる根拠を人から示されているからではなく、今日の会堂の人々と同じように戸惑ったり驚いたり困ったりしながらも、神様側の根拠があるはずだと言う事を感じているからだろうと思います。分かりきれなくても、神様側の思いに立つことを選んでみようともがいているのだと思います。私たちが人間の知識とか経験とかでは到底信じきれないことをご存知のイエス様に、どうかそんな私たちの中でこれからも本当の神様のお話を語り続け、業を行って下さいと祈りたいと思いました。