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マルコによる福音書を読む 5
             松田 康子


 最初のお弟子たち

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのをご覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。
(マルコ1章16節〜20節)

神さまから霊を受けられ荒れ野で四十日間過ごされた後、イエス様はガリラヤへ行き福音を宣べ伝え始められました。そのイエス様が、後に福音を伝えて行く重要な存在となる人達に声をかけられた場面です。
ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたイエス様は、シモンとアンデレが湖で網を打っているのを御覧になって声をかけられました。なぜ、シモンとアンデレに声をおかけになったのだろうかと特別な理由を探したくなってしまうところですが、しかし、聖書にはそのような事は何も書かれていないようです。という事は、その理由(この人がこういう人だったから選ばれたのだというような)を考えることにはあまり意味がないのでしょう。
これまで読んできたのは、イザヤ書の実現として洗礼者ヨハネが登場し、神さまの意志、計画によってイエス様が霊を受けられ、さらに霊によって荒野に送り出され、その後伝道を開始されたと言う経緯でした。イエス様は神さまとの関係の中でこれらの事を行っておられると言う印象を強く受ける箇所です。ですから、弟子に声をかけた出来事も神様とイエス様のご計画の中での出来事として素直にとらえてみようと思いました。
今日の箇所で、ガリラヤ湖で仕事をしていたシモンとアンデレにイエス様から声をかけられています。弟子になるというと「偉い先生のところに自分から入門して弟子にしてもらう」というイメージがありますが、イエス様の場合は逆です。当人たちは声をかけられるその瞬間までイエス様の弟子になるなんて考えたこともなかっただろうと思います。では何故二人の心が動いたのでしょう。イエス様を見て何かを感じたのでしょうか?イエス様は「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。以前士反先生が説教の中で、漁師四人を弟子にしたこの箇所について、エレミヤ書の実現だと言われた事がありました。確かにエレミヤ書16・16に『見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。』とあります。例えば「彼らは人を鉤にかけて釣り上げ網に入れて引き寄せ、投網を打って集める」というような漁に例えた表現は他にも旧約聖書に出てくるので、当時の人々が「人間をとる漁師」と言う言葉に何か信仰的な特別な意味を感じていたとも考えられます。しかし、やはり何故彼らがイエス様についていこうと思ったのか確かな事はわかりません。とにかく、イエス様の声かけに、二人とも従って行きました。そのすぐ後に、ヤコブとヨハネもイエス様の呼びかけに従い、父や雇い人たちを舟に残してイエス様について行きました。
このように四人を弟子にした場面も、「天が裂けて霊が降る」とか「荒れ野でサタンから誘惑をうける」ことと同じくらい不思議な感じがして、「やっぱり神さまの計画だから」というところに行ってしまうのですが、人間的な「なぜ?」をはずして読んでみるとまた違う感じを受けます。
まず、イエス様が声をかけられたときに四人とも仕事をしていました。熱心に祈っていたとか勉強していたとかではなく、言わば何でもない普段どおりの生活の場面です。そのなんでもない生活の中でイエス様から声をかけられています。イエス様のやり方は、人を集めるために四苦八苦して何か特別な場を設けようと策を練る事にしか方法を見出せない私達とはずいぶん違います。「信仰を活かして行くのは生活の場なのよ」という身近な人の言葉を思い出しました。
また、声をかけられた四人はそれぞれ、「網を捨て」「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟にのこして」すぐにイエス様の後について行ったと書いてあります。その場ですぐに何もかも捨ててついて行ったという意味なのかもしれませんが、その選択は確かに普通とは違っていると思います。だいたい、ついて来なさいと誰かに言われたからと言って普通私たちはそう簡単については行かないでしょう。たいていは今忙しいからとかこれから予定があるからとか何かしら行けない理由を見つけるものです。例え何かに対して心が動いたとしても、躊躇して出来ない理由を探して行動しないのがよくあるパターンのようにも感じます。しかし、この四人は何故かついて行くことを選んで行動しました。「網を捨て」「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟にのこして」とは通常では考えられないような選択だったと言う事が感じられます。そしてそれがとても意味深い事に感じます。
確かに神さまの計画によってイエス様の生涯の旅は進んで行きます。この時点で四人がイエス様の事やその目的を理解していたとは思えません。でも、分からないながらもその計画の中に飛び込んでみる事を選んで行動したのです。そのようにして弟子になった人たちをイエス様は最後には派遣していかれます。今日の箇所のこの様なイエス様の招きについて蓮見先生は「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ(ヨハネ15・16)」という箇所を引用しておられました。確かにその通りだと思いました。そして四人の弟子達はイエス様の招きに身を投じることを選んだ人達です。神様にとってきっと私達も同じだと思います。それぞれに神さまと出会った経緯や自分なりの理由はあったと思いますが、確かに神さま側の理由によって掴まえて頂いているのだと思います。私自身、神さま側の理由や意図が何であるかという事になると確信が無く本当に弱いところですが、神様にはそれがあると言うことが唯一希望に感じられます。
イエス様が声をかけて下さって今ここにいるのだと言う事を思い出すことが出来ました。神さまの計画の中にあるということを信じて心が動く事に行動してみようと思います。



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