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マルコによる福音書を読む 4
             松田 康子


 ガリラヤで伝道を始める

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
(マルコ1章12節〜13節)

前回までのマルコ福音書では、イエス様が水による洗礼を受けられた直後に霊が下り、それから霊と共に荒野でサタンから誘惑を受けられたと言う事が書かれていました。
 その後に、イエス様がガリラヤで伝道を始められたと言うのが今回のお話です。「神の子イエス・キリストの福音の初め」として書かれてきたこれまでの流れの中で、やはりその出来事の一つ一つは神さまのご計画のとおりの事が成就されてきたと言う事を感じるしかないのですが、この箇所の最初の「ヨハネが捕らえられた後」という言葉に関心を寄せました。
 ヨハネが捕らえられた時期について、その順序については特に意味を考える必要はないのかもしれません。でも、マルコ福音書では、ヨハネが水による洗礼を皆に与え、イエス様が来られることへ「悔い改めよ」と宣べ伝え、その後にイエス様ご自身が水によって洗礼を受けられ、霊を受けて、荒野に向かわれて…というように順を追って書かれています。その後ヨハネが捕らえられ人々の前から奪われた後にイエス様が福音を宣べ伝えはじめられた事実が書かれている、その流れに目を向けて自分たちの事を考えると、「私たちが誰かを通して神様に導かれ、でも、その誰かにいつまでもどっぷりと頼ることをせず、あるいは特別な後ろ楯がなくても、それでも神さまに信頼して福音を信じて踏み出すという選択にもう一度押し出される」と言うような感じを受けました。
 ふと、当時の人たちの事を考えると、希望の先駆けみたいに預言者ヨハネが現れ、その言葉や旧約聖書の預言どおりにイエス様が現れた、まさに喜んでいた時にヨハネが捕らえられた。それは、一抹の不安であっただろうとも思います。さあ、これから救われるのだ!良い事が起こるはずだ!という期待の時に、ヨハネが捕らえられたという事は、その希望に水を差すような出来事だったと、人間的には考えられると思います。でも、その中で、イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。
私は最初、「時は満ち、神の国は近づいた」というイエス様の言葉に、どこか恐れのような感情を持ちました。「え!もう!?私にはまだ何の準備もできていません。それに現実の生活も相変わらずですよ。」というような心境です。自分の感情を無視すれば、このイエス様の言葉を、世の中の不条理によってヨハネは奪われたけれど、イエス様は与えられている、そこに希望をみいだせと考えることは出来ます。でも、もっと私たちの生活に近づけて考えると、そんな不条理だったりマイナス材料の多い現実の中で、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とイエス様が福音を宣べ伝えておられることに意味を感じます。
 もし、私たちが特に信じて大切にするものが無く曖昧に生きていられたとしたら、誰かと意見を異にしたり戦う必要もなく表面上を平穏に過ごす事を正しいと考えていたかもしれません。でも、自分の中にどうしても捨てられない大事なものを持った時、それを貫くために何かとぶつからざるを得ない状況に直面するのだろうと思います。そのような自分の意志の下でヨハネは捕らえられて行きました。でもそれは裏を返すと、神さまの福音という力を相手が恐れたために起こった出来事だったと言えます。状況的には不利な感じを受けますが、それは神様を信じる人が現実的に力を持ち始めた事を世の中が認めて恐れたという証拠だと思います。ですから、「時は満ち、神の国は近づいた」というイエス様の言葉に意味を感じました。そしてその後にイエス様は「悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。「え!もう!?私にはまだ何の準備もできていません。それに現実の生活も相変わらずですよ。」と言う私の恐れは全く的外れだった事に気づきます。イエス様は義人にこの言葉を語っておられませんでした。神の国に入ることをクリスチャンの特権でも義務でもなく、悔い改めて福音を信じなさいと確かに仰っていました。イエス様のこの言葉に勇気付けられます。実際の私たちの現実も、目の前に絶対的な確信はなく、それでも説教を聞いてそのメッセージに信頼して導かれたいと願いながら踏み出す事しかありません。イエス様の言葉のとおり、今もう一度自分自身に問い、自分の心の大切な部分に立ち返ることを選んで進んでみたいと思います。イエス様がそのようにして今も私たちを導こうとして下さる事に感謝します。


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