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マルコによる福音書を読む 3 松田 康子
| それから、霊≠ヘイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。 (マルコ1章12節〜13節) |
前回までのお話でヨハネから水による洗礼を受けられたイエス様に天から霊≠ェ下りました。それからイエス様は霊≠ノより荒れ野に送り出され、四十日間サタンから誘惑を受けられたというのが今日のお話です。私の中のイエス様のイメージが、「神様の御子」「特別なお方」というものだったからなのかもしれませんが、イエス様がサタンの誘惑を受けるために荒れ野に行かれたというお話を聴く時、「なぜ、あえてイエス様が?」という疑問がいつもどこかにありました。マタイによる福音書やルカによる福音書にはその時の様子が具体的に書かれてあり、サタンとイエス様のやり取りの中から、イエス様の立ち方に聖書のメッセージを聴きました。でも、このマルコ福音書ではその事実だけを記してあることにぶつかった時、またこの疑問が持ち上がりました。
イエス様は霊≠ノより荒れ野に送り出されたと書いてあります。ヨハネから洗礼を受けられたことも、その後霊を受けられたことも神様のご計画であったように、荒れ野で四十日間サタンから誘惑を受けられたということも神様のご計画であったはずです。その事はいったい私たちとどのように関係しているのでしょうか。
教会学校のテキストの中で、蓮見先生は「よく注意してみると、聖書には、『御霊がイエスを荒野に追いやった』と書いてあります。あの洗礼の時に、イエス様の上にはとのように下った神さまの御霊が、イエスさまを荒野に送って、試みにあわせたのです。なんというすばらしいことでしょう!どんな試みにあって苦しんでいる時でも、こわい悪魔がいるばかりではなく、上からの神さまの御霊の働きがあるとは。そこには人間をひとのみにしてしまう獣もいましたが、神さまの御使いがイエスさまといっしょにいて仕えていたのです。」
イエス様が荒れ野で過ごされた話を、イエスさまだからどんな誘惑にも負けることはなかったと捉えて読めばそれまでですが、私にとっては、野獣がいるような荒れ野で四十日間サタンと向き合うなどという話は、わけのわからない恐ろしい状況としてしか想像できませんでしたので、「なんとすばらしいことでしょう」という蓮見先生の言葉に驚きつつ、霊≠ェただ荒れ野に送り出しただけでなく、その後もイエス様と共にいて仕えていたんだ、という事に初めて目を向けさせられました。教会学校でもよく子供たちとお話しするのですが、私たちはイエス様の姿を見ることも、感じる事もできないかもしれませんが、イエス様は確かにそばにいてくださると信じて歩んでみようとする時に勇気を与えられる気がします。そのことと重ねて、蓮見先生がおっしゃる霊≠ェ共にいて働いていたという事のすばらしさというのが少し見えてくるように思いました。
また、蓮見先生は私のかねてからの疑問について次のように書かれています。「しかし、どうして、イエスさまは、神さまの福音を伝える前に、悪魔の試みを受けなければならなかったのでしょうか。それは、イエスさまのみ言葉が、ただの言葉ではなく、実際の力となって、試みの中にいる弱い私たちを助けるためにほかなりません。へブル人の手紙の中に、『イエスさまご自身が試みを受けられたから、試みの中にいる私たちを助けてくくださることができる』(ヘブル2・18)とあるように、イエスさまご自身が、まず試みを受けて、勝ってくださったので、それによって、私たち弱い人間が苦しい試みの中で、イエスさまにお願いすることができるためです。」
あえてイエス様が神様のご計画の中でサタンから誘惑を受けられたということは、蓮見先生が言われるように、どう頑張ろうとしても弱い私たち人間とイエス様との間にかかわりを持たせてくださる出来事なのかもしれません。それは単に「サタンに勝ってくださった」という事ではなく、「人として試みを受けて」勝たれたというところにあると思います。
ある人がイザヤ書30章20節「わが主はあなたたちに災いのパンと苦しみの水を与えられた。あなたを導かれる方はもはや隠れておられることなくあなたの目は常にあなたを導かれる方を見る。」という箇所について、「主はあなたを厳しい状況に置かれます。しかし主ご自身があなたにそのことの意味を悟らせるためにその場所に身を置かれます。あなたはもはや主を捜す必要はありません。」と解釈しておられるのを読んだ時に、確かにそうかもしれないと感じたことがあります。よく困難な状況にある時、「神さまはあなたが背負えないような苦しみは与えないよ」というような意味の言葉を、教会の中に限らず度々耳にすることがあります。しかし、苦しい時に誰かにその言葉を言われても、全く慰めにならないどころか、むしろ私自身はその言葉そのものを重荷に感じるでしょう。ですから、例えその言葉が真実であっても、私が誰かに言う事はないように思います。でも、今、神さまとの関係の中で本当に正直に自分と向き合うと、苦しい時にも実はそこにもイエス様がいてくださるという聖書のことばが心の底では希望になっている事を感じます。その希望というのは、「イエス様がきっと何とか解決してくださる!」という眩しい期待の意味とは違い、聖書の中でイエス様は誰に裏切られても最後までご自分の約束を果たしてこられたという事と関係があると思います。そうやって、重荷を下ろすことを選ばず背負い続けて人として生きて死なれたイエス様の生き方が、自分とイエス様との関係の中で希望の根拠になっているように思います。
蓮見先生の言われる「イエスさまのみ言葉が、ただの言葉ではなく、実際の力となって、試みの中にいる弱い私たちを助ける」という言葉の意味もそういうことではないかと考えました。
神さまはやはりそのご計画の中で、イエス様の生涯を通して私たちとのかかわりを持とうとされているのでしょう。そして、イエス様が、誰よりも真っ先に試みを受け、苦しみを背負ってくださった事で本当に私たちの力となってくださっている事に感謝します。
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