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多くの病人を癒す 八重尾 次雄
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イエスは、人が主の弟子( キリスト者も同じです )となるためには、どのような従い方をすべきかについて、二つの事例を通して、教えられます。
ここまでイエスは、大きな奇蹟を行って、評判を高め、群衆が集まってくると名声を避けて、向こう岸に行かれます。しかし、その名声、奇蹟に驚き、従おうと申し出る者も現れてきました。
イエスの癒しや奇蹟は宣伝ではありません。
それは、十字架の愛の現れであって、イザヤ書53・4にあるように、彼はわたし達の患いを負い、わたし達の病を担ったのです。人々の苦難を負うことによって救い、病を自らに担うことによって、人々に健康をもたらすのです。 これがイエスの中心であり、これを宣伝することを厳しく戒められました。
この真理が分からず、ただ人々の評判に興味を持ち、奇蹟に驚いて、ついてこようとする人に、イエスは十字架の道を示されました。
「狐には穴があり、空の鳥には、巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」と.
動物さえも持つ地上の安息所を持たないで、人々の苦しみや悩みを助けるため忙しく働き、また迫害者に追われる身となっておられるイエス。イエスは、なにも持たず、自分のために何も求めない人です。真の奇蹟は、病を担うイエスのもとにあります。枕する所もないほどの忙しさと迫害のただ中にあります。この他者のための労苦、十字架こそ奇蹟の源泉ではないでしょうか。イエスに従うとは、この労苦をともに負うことではないでしょうか。
マタイ16章で、イエスが死と復活を打ち明けられたときに、ペテロが、主よ、とんでもないことですと、いさめましたが、イエスはペテロにサタン、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている、と叱られました。そして、弟子たちに、私についてきたいものは、自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさいと言われました。このみ言葉によってイエスに従うということは、
第一に自分を捨てることではないか。
自分を捨てるとはどういうことでしょう。自分こそは正しい、偉い、或いは自分中心、そのようなことに支配されている自分を捨てて、神中心に帰ることではないでしょうか。
第二は、自分の十字架を背負うことでしょう。これは、イエスの負われる罪のあがないの十字架ではなくて、イエスの十字架のゆるしに対する感謝から負う苦難でしょう。イエスの十字架によって、私たちは、1万タラントの途方もない借金をしておりますが、私たちはこの借金を返すことは出来ません。しかし、借りたものは返さなければなりません。あの良きサマリア人の心で返すのです。しかし、わたし達の返還は、いくら重ねても1万タラントの前には物の数ではありません。借金を少しぐらい返したといっても自慢にもなりません。だから、返還し続けねばなりません。 しかし、これは小さな小さな苦難です。十字架とは単なる苦労ではなく、愛のため、他者のために担う苦労です。
三番目は、イエスのおられるところに、私もいることです。従って、自分の気ままに何処へでも行けばよいということではありません。イエスが望まれる道を歩むのです。
今、律法学者が「先生、あなたがおいでになる所なら、何処へでも従って参ります」と言って来ました。 十字架を前にして、「たとえ、みんなが、あなたにつまずいても、私は決してつまずきません」 (マタイ26・33)と大見栄を切ったペテロの言葉と何処か似ているものがあります。 ペテロはこの直後、イエスを三度否定しました。やみくもに自信に満ちた言葉は当てになりません。イエスは、従ってくるものに、ほんとうの服従を求めておられます。一時的な高ぶりからくる、熱狂的態度では長続きしません。イエスへの服従は、地味です。 イエスは真の苦しみと弱さを知って、服従と信頼をイエスにかけてゆく者を望まれているのではないでしょうか。
次に来た人は、イエスの弟子でありながら、この世のこと、人間のことを先にする人です。前の律法学者もそうですが、この弟子に対しても、イエスは全く反対の態度を取られました。 この弟子は「主よ、先ず父を葬りに行かせて下さい」と言って来ました。イエスは、葬式に反対されたのではありません。イエスは、この言葉の「先ず」に反対されたのです。それは「何よりも先ず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6・33)、「先ず自分の目から丸太を取り除け」(マタイ7・5)というあの言葉の「先ず」とかかわりがあります。先ずとは、何がなんでも先ず第一にです。イエスの弟子は、「先ず」何をなすべきか、一番目と二番目を取り違えないことが大切かと思います。 生ける主と結びつくことが「先ず」です。
人間誰しも、段段年をとるに従って何事も思うようにはいかなくなります。普通なら、この事実は悲観の原因になるでしょう。しかし信仰においてはそうではありません。 私の中で、主が大きくなることによって、身体的衰えがカバー出来るということだけでなく、かえってその方が力強くなるのではと思われます。主に従うということが、衰えを克服するのでしょうか。老後ただ隠居しているだけではなく、そこにも主に従う道があります。そのとき人は老いることがないのではと。それだけではありません。イエスは、「私に従ってきなさい」と言われ、「私の子羊を養いなさい」と命じられる時、私に必要な力をも与えておられるのです。
主は、私が出来ないことを要求なさいませんから。
主に感謝します